題しらず | 読人知らず | |||
888 |
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この歌では「倭文」は「賤(しづ)」に掛けられて、「賤しき」を導いている。あるいは「賤の男(を)」までが掛けられているのかもしれない。歌の意味は言葉通りで、身分の低いものも高いものも、盛りの時期はあったものだ、ということ。 "ありし" と過去形になっているので、今では年老いて、どちらも似たようなものになっているけれど、という含みがあるような気もする。 古今和歌集の配列から言えばこの歌は、一つ前の 887番の読人知らずの「いにしへの 野中の清水 ぬるけれど」という歌と同じ出だしを持ち、889番以降に続くの老いの歌の入口に位置している。 |
( 2001/11/12 ) |
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