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       題しらず 読人知らず  
29   
   をちこちの  たづきも知らぬ  山なかに  おぼつかなくも  呼子鳥かな
          
     
  • をちこち ・・・ 遠くも近くも
  • たづき ・・・ 見当
  • おぼつかなくも ・・・ 頼りなさそうに
  "呼子鳥" は万葉集にもよく出てくる鳥の名前であるが、古今伝授の三鳥の一つであり、一般的には「カッコウとされるが不明」とされる。
「和歌秘伝鈔」 (1941 飯田季治 畝傍書房) では、「古今伝授」の本文として 「呼子鳥」について次のような説を紹介している。
  • 呼子鳥は春の鳥であり、ツツドリのことである。
  • ツツドリは親がツツツツと鳴くと子の鳥がやってくるので呼子鳥と言われる。
  • 呼子鳥はまた 「年寄り来よ来よ」と鳴くハトのこととも言われる。
  • 「年寄り来よ来よ」と子が親を呼んでいるようなので呼子鳥なのである。
  • ただし古今和歌集では、猿のことである。
  • 時には山彦のことを指すこともある。
  かなり支離滅裂な内容であるが、飯田氏はその評釈として 「呼子鳥」は 「鵺(ぬえ)」と同じでカッコウのことであり、「片恋をする鳥」として歌に使われる、としており、「徒然草」の第二百十段にある次の説を引いて、吉田兼好のことを 「一寸話せる坊さんである」と書いている。

 
     
喚子鳥は春の物なりとばかりいひて、いかなる鳥とも定かに記せる書なし。ある眞言書の中に、喚子鳥鳴く時、招魂の法をば行ふ次第あり。これは鵺(ぬえ)なり。萬葉の長歌に「霞立つながき春日の」など続けたり。鵺子鳥(ぬえこどり)も喚子鳥のことざまに通ひてきこゆ。


 
        確かにこの歌は春歌上に分類されていて、この歌では他に春を指し示すものがないので 「呼子鳥」を古今和歌集の撰者たちが春の鳥と認識していたということはうなずける。 「呼ぶ・子鳥(小鳥)」というだけで春を表わすと見るのはやや苦しいからである。

  歌の内容は、
山に迷っているのは鳥ではなく作者であり、それを導くように呼子鳥は鳴いているけれど、その声は頼りなさげで当てにならない、と見る見方と、鳥が深い山の中で不安そうに誰かを呼んでいると見る見方の二つがある。鳥が山に迷うというのはやや不自然だが、どちらの解釈でもかまわないような気がする。いずれの場合もこの歌から受けるのは 「迷子」というイメージである。

  "をちこち" の 「をち」は遠方ということであり、次の貫之の離別歌や読人知らずの旋頭歌でも使われている。

 
380   
   白雲の  八重にかさなる  をちにても   思はむ人に  心へだつな
     
1007   
   うちわたす  をち方人に   もの申す我  そのそこに  白く咲けるは  何の花ぞも
     
        また、「おぼつかなし」という言葉を使っている歌としては、他に 417番の藤原兼輔の「夕月夜 おぼつかなきを 玉くしげ」という歌がある。
 
( 2001/10/22 )   
 
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