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糸として撚ったものでもないのに、別れ道は心細くも思えることだ、という歌。きつく撚った糸の細さを 「心細さ」に合わせているという解釈が一般的である。ただ、 "別れぢ" という言葉からは、撚った糸の先がほどけるように、ここまでは一緒だった他の人と別れ一人片糸のように行かねばならない感じを詠ったもののようにも見える。あるいは糸に撚るためのものではないが、という感じか。
この歌については、吉田兼好の「徒然草」の第十四段で次のように言われている。
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貫之が、「いとによる物ならなくに」と言へるは、古今集のうちの歌屑とかや言ひ伝へたれど、今の世の人の詠みぬべきことがらとは見えず。その世の歌には、すがたことば、このたぐひのみ多し。この歌に限りて、かくいひ立てられたるも知りがたし。 |
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古今和歌集の中でこの歌は 「歌クズ」などと言われているが、この時代のものはだいたいこんなものが多いので、この歌だけ取り立てて言われるのは理解できない、ということである。まっとうな意見だが、それよりもこの地味な歌を 「歌クズ」として見た人の感性の方に興味がある。 「糸−糸クズ−歌クズ」と思いついたものか。時代によって受けとり方も変わってくるのであろう。
この 「歌クズ」という批判の元はどこから出たものかわからないが、賀茂真淵「古今和歌集打聴」ではこれに対し「さて此歌を此集の歌くずと云事いかなるをこ人のいひ出けん、よき歌なればこそ拾遺にも二度入り源氏物語にも書出しなれ」と書かれている(をこ人=馬鹿者/「拾遺にも二度入り」は古今和歌集にあるのに拾遺和歌集巻六330として重複して採られて、という意味)。
このように面白い批判があると逆に盛り上がって、その批判が反論のために何度も引用されるのは、正岡子規の「歌よみに与ふる書」の古今和歌集/貫之批判の場合と同じである。
「〜なくに」という言葉を使った歌の一覧は 19番の歌のページを、「思ほゆ」という言葉を使った歌の一覧は 33番の歌のページを参照。
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