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       題しらず 喜撰法師  
983   
   我が庵は  みやこのたつみ  しかぞすむ  世をうぢ山と  人は言ふなり
          
     
  • 庵 ・・・ 本来は草木で作った仮小屋のこと。質素な住まい。
  • たつみ ・・・ 東南
  
私の庵は都の東南、こうして住んでいるが、その場所を世を厭う 「宇治山」と人は呼ぶのだ、という歌。 「宇治山」は現在の京都府宇治市池尾にある喜撰山あたり。喜撰法師については、その詳細は不明。古今和歌集に採られている歌もこの一首のみである。また、この歌は百人一首にも採られている。

  この歌の "しか" は一般的には 「鹿」ではなく、「然(しか)」だとされている。何故か。その理由を述べているものに 「顕註密勘」がある。その部分を 
「古今和歌集全評釈  補訂版 」 (1987 竹岡正夫 右文書院 ISBN 4-8421-9605-X) から引用すると、

 
     
...しかぞすむとは、然ぞすむと云。しかぞはさぞといふ詞也。鹿ぞすむとよめるなど申人あれど、さもきこえず。鹿のすまんからによをうぢ山といふべきよしなかるべし。しかるに然をよせたりといふても猶無由歟。

  (...しかぞすむとは 「然ぞすむ」ということである。しかぞは 「さぞ(=そのように)」という言葉である。鹿ぞ住むと詠んでいるなどと申す人があるが、そうは思えない。鹿が住んでいるから 「世をうぢ山」 と言うのでは理屈が通らず根拠に欠ける。 「然る(=それなのに)」という意味でここの 「しか」を使っているという説もやはり理由のないことだと思われる。)


 
      という意見である。確かに、ここで突発的に 「鹿」を入れる必然性はなく、「鹿」のイメージを落としてしまえば、仮名序にある 「宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終はり確かならず。いはば秋の月を見るに暁の雲にあへるがごとし。」という評価に近くなるが、歌が地味で面白味がなくなるので、ここでは 「然−鹿」を掛けているものと見たい。

  "世をうぢ山" の 「う」には 「憂」が掛けられているが、それを 「卯」とも見れば、「しか」を 「鹿」として「辰(龍)−巳(ヘビ)−鹿−卯(ウサギ)」と動物づくしになり、それを最後に 「人」で締めくくっていると見れば "我が庵" は、さながらノアの箱舟のようになる。それは極論だが、 「しか」 を鹿と見ることにより、「鹿ぞ住む−人は言ふ」のペアが出来上がり、歌の姿として安定するようにも思える。

  「宇治」の 「う」に 「憂」を掛けている例は次の読人知らずの歌などにも見られる。 「世をう〜」という表現のある歌の一覧は 798番の歌のページを参照。

 
825   
   忘らるる  身を 宇治 橋の  なか絶えて  人もかよはぬ  年ぞへにける
     

( 2001/12/18 )   
(改 2004/02/09 )   
 
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