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  「古今和歌集遠鏡」  本居宣長の端書
 
古今集遠鏡端書

雲のゐる遠き梢もとほ鏡うつせばこゝにみねのもみぢ葉

此書は。古今集の歌どもを。こと/\く今の世に俗語[サトビゴト]に訳[ウツ]せるなり。そも/\この集は。よゝに物よくしれりし人々の。ちうさくどものあまたありて。のこれるふしもあらざンなるに。今さらさるわざはいかなればといふに。かの注釈[チユウサク]といふすぢは。たとへばいとはるかなる高き山の梢どもの。ありとばかりはほのかに見ゆれど。その木とだに。あやめもわかぬを。その山ちかき里人の。明暮のつま木のたよりにも。よく見しれるに。さしてかれはととひたらむに。何の木くれの木。もとだちはしか/゛\。梢のあるやうはかくなむとやうに。語り聞せたらむがごとし。さるはいかによくしりて。いかにつぶさに物したらむにも。人づての耳は。かぎりしあれば。ちかくて見るめのまさしきには。猶にるべくもあらざらめるを。世に遠目がねとかいふなる物のあるして。うつし見るには。いかにとほきもあさましきまで。たゞこゝもとにうつりきて。枝さしの長きみぢかき。下葉の色のこきうすきまで。のこるくまなく。見え分れて。軒近き庭のうゑ木に。こよなき。けぢめもあらざるばかりに見ゆるにあらずや。今この遠き代の言の葉の。くれなゐ深き心ばへを。やすくちかく手染の色にうつして見するも。もはらこのめがねのたとひにかなへらむ物をや。
 
 
  宣長の端書は少し長いので分割して順に見てゆく。
  まずはじめに、そもそも昔から古今和歌集の注釈は多くあるのに、何故今更こうして「遠鏡」を著すのか、そして何故タイトルが「遠鏡」なのかということが述べられている。
  遠くにある高い山(=古今和歌集)の様子を知りたい時に、その近くに住む人からの詳細な手紙(=注釈)を読んでも今一ピンとこないが、望遠鏡のようなものがあってまず自分の目で見ることができれば実感が湧くだろう、ということである。まず見てからその後で、木の種類や枝ぶりなどを細かに記した手紙(=注釈)を読めば、なるほどと得心がゆくはずだ、という含みがある。
 
 
かくて此事はしも。尾張の横井ノ千秋ぬしの。はやくよりこひもとめられたるすぢにて。はじめよりうけひきてはありける物から。なにくれといとまなく。事しげきにうちまぎれて。えしもはたさずあまたの年へぬるを。いかに/\としば/\おどろかさるゝに。あながちに思ひおこして。こたみかく物しつるを。さきに神代のまさことも。此同じぬしのねぎことにこそありしか。さのみ聞けむとやうに。しりうごつともがらもあるべかンめれど。例[ルイ]のいと深くまめなるこゝろざしは。みゝなし山の神とはなしに。さて過すべくもあらずてなむ。
 
 
  横井千秋(1738-1801)は尾張藩の藩士で、天明五年(1785)に宣長に入門。「古事記伝」の完成に大きく貢献した。ここで「さきに神代のまさことも。此同じぬしのねぎことにこそありしか」と言っているのは、寛政元年(1789)に出来て翌二年に刊行された「神代正語」のこと。その内容は古事記の上巻を仮名に書き下したものである。
 
 
○  うひまなびなどのためには。ちうさくはいかにくはしくときたるも。物のあぢはひを甘しからしと。人のかたるを聞たらむやうにて。詞[コトバ]のいきほひてにをはのはたらきなど。こまかなる趣[オモムキ]にいたりては。猶たしかにはえあらねば。その事を今おのが心に思ふがごとは。さとりえがたき物なるを。さとびごとに訳したるは。たゞにみづからさおもふにひとしくて。物の味を。みづからなめて。しれるごとく。いにしへの雅言[ミヤビゴト]みな。おのがはらの内の物としなれゝば。一うたのこまかなる心ばへの。こよなくたしかにえらるゝことおほきぞかし。
 
 
  「○」付きで項目分けをしての説明がはじまる。
  このはじめの項目は冒頭の文と内容はほとんど同じ。言い方を少し変えて口語訳の効能を述べている。
 
 
○  俗言は。かの国この里と。ことなることおほき中には。みやびことにちかきもあれども。かたよれるゐなかのことばは。あまねくよもにはわたしがたければ。かゝることにとり用ひがたし。大かたは京わたりの詞して。うつすべきわざなり。たゞし京のにも。えりすつべきはありて。なべてはとりがたし。
 
 
  口語といっても方言などもあるので、京都周辺で話されている言葉を用いることを言っている。「なべてはとりがたし」とは次の項目への振りである。
 
 
○  俗言にも。しな/゛\のある中に。あまりいやしき。又たはれすぎたる。又時々のいまめき詞などは。はぶくべし。又うるはしくもてつけていふと。うちとけたるとのたがひあるを。歌はことに思ふ情[コヽロ]のあるやうのままに。ながめいでたる物なれば。そのうちとけたる詞して。訳すべき也。うちとけたるは。心のまゝにいひ出たる物にて。みやびことのいきほひに。今すこしよくあたればぞかし。又男のより。をうなの詞は。ことにうちとけたることの多くて。心に思ふすちのふとあらはなるものなれば。歌のいきほひによくかなへること多かれば。をうなめきたるをもつかふべきなり。又いはゆるかたことをも用ふべし。たとへばおのがことを。うるはしくはわたくしといふを。はぶきてつねに。ワタシともワシともいひ。ワシハといふべきを。ワシヤ。それはをソレヤ。すればをスレヤといふたぐひ。またそのやうなこのやうなを。ソンナコンナといひ。ならばたらばを。ばを省[ハブキ]てナラタラ。さうしてをソシテ。よからうをヨカロ。とやうにいふたぐひ。ことにうちとけたることなるを。これはたいきほひにしたがひては。なか/\にうるはしくいふよりは。ちかくあたりて聞ゆるふしおほければなり。
 
 
  無理に下卑た言葉や、はやり言葉などを用いず、そのかわり口調は「うちとけたる」ものであることを基調とし、「いきほひ」を大切にして、それを生かすためには女っぽい言葉でも気にせず、カタコトであっても日常使われるものならばどんどん使ってゆく、という口語訳の基本方針を述べている。
  男の歌なら男言葉で、女の歌なら女言葉で訳せばよいようなものだが、古今和歌集の中には読人しらずの歌が多く、また男が女の立場で詠うケースもあるので、このような言い方をしたとも考えられる。
 
 
○  すべて人の語[コトバ]は。同じくいふことも。いひざまいきほひにしたがひて。深くも浅くも。をかしくもうれたくも聞ゆるわざにて。歌はことに心のあるやうを。たゞにうち出たる趣なる物なるに。その詞の口のいひざまいきほひはしも。たゞに耳にきゝとらでは。わきがたければ。詞のやうをよくあぢはひて。よみ人の心をおしはかりえて。そのいきほひを訳すべきなり。たとへば。「春されば野べにまづさく云々。といへるせどうかの訳のはてに。へヽ/\へヽ/\と。笑ふ声をそへたるなど。さらにおのが今のたはむれにはあらず。此ノ下ノ句の。たはむれていへる詞なることを。さとさむとてぞかし。かゝることをだにそへざれば。たはむれの答へなるよしのあらはれがたければなり。かゝるたぐひ。いろ/\おほし。なずらへてさとるべし。
 
 
  「いきほひ」を表わした例として、1008番の旋頭歌の訳 を上げているが、この「ヘヘヘヘ、ヘヘヘヘ」は、少しどうかと思う人もあるだろう。だが、それは字として見ることに主眼を置くからであって、音として聞けば2秒ほどのものである。黙読に慣れた現代では、視覚の印象を薄めて音に集中するというのはやや難しいが、訳にセットされた「いきほひ」を感知するためには、そうしたことも必要であるかと思われる。
 
 
○  みやびごとは。二つにも三つにも分れたることを。さとび言には。合せて一ツにいふあり。又雅言は一つなるが。さとびごとにては。二つ三つにわかれたるもあるゆゑに。ひとつ俗言をこれにもかれにもあつることあり。又一つ言の訳語[ウツシコトバ]のこゝとかしこと。異なることもあるなり。
 
 
  歌と訳との関係が雅言と俗語の関係にすり替っていっているように見えるが、これはまず基本部品としての「語」のレベルから話をしようとしているためである。
  雅言と俗語の対応は必ずしも一対一とはならず、一が多になることもあれば多が一になることもあり、また同じAが時にはB、時にはCと異なって変換されることもある、ということを言っている。一対一で訳せるものはそうするが、という暗黙的な前提が言外の意として含まれている。
 
 
○  まさしくあつべき俗言のなき詞には。一つに二ツ三ツをつらねてうつすことあり。又は上下の語の訳の中にその意[コヽロ]をこむることあり。あるは二句三句を合[アハセ]て。そのすべての意をもて訳すもあり。そはたとへば。「ことならばさかずやはあらぬ桜花などの。ことならばといふ詞など。一つはなちては。いかにもうつすべき俗言なければ。二句を合せて。トテモ此ヤウニ早ウ散ルクラヰナラバ 一向ニ初メカラサカヌガヨイニ ナゼサカズニハヰヌゾ。と訳せるがごとし。
 
 
  一対多であれ多対一であれ、雅言に対して対応する俗語があるものについては前項の通りだが、そうでないものについては前後の複数の「句」に範囲を広げ、まとめて訳すことがある、と言い、その例として、82番の歌の訳 を上げている。
  例えばこの訳の場合、「一向ニ初メカラサカヌガヨイニ」の部分は前に属するのか、後ろに属するのかは微妙なところである。それで「二句を合せて」ひとまとめ、と言っているものと思われる。
 
  ことならば     さかずやはあらぬ
  トテモ此ヤウニ早ウ散ルクラヰナラバ 一向ニ初メカラサカヌガヨイニ  ナゼサカズニハヰヌゾ
 
 
○  歌によりて。もとの語のつゞきざま。てにをはなどにもかゝはらで。すべて意をえて訳すべきあり。もとの詞つゞき。てにをはなどを。かたくまもりては。かへりて一うたの意にうとくなることもあれば也。たとへば「こぞとやいはむことしとやいはむなど。詞をまもらば。去年ト云ハウカ今年トイハウカ。と訳すべけれども。さては俗言の例[レイ]にうとし。去年ト云タモノデアラウカ今年ト云タモノデアラウカ。とうつすぞよくあたれる。又「春くることをたれかしらましなど。春ノキタコトヲ云々と訳さゞれば。あたりがたし。来[ク]ると来[キ]タとは。たがひあれども。此歌などの来るは。来[キ]ぬるとあるべきことなるを。さはいひがたき故に。くるとはいへるなれば。そのこゝろをえて。キタと訳すべき也。かゝるたぐひいとおほし。なずらへてさとるべし。
 
 
  さらに語の並びや助詞など(てにをは)も変えることがあると言い、その例として二つの訳をあげている。
  1番の歌の訳 の方は現代から見た場合には、どちらでもあまり変わらないような気がする。
  14番の歌の訳 の方は、解釈が訳の言葉に表れ、その結果「てにをは」が変わるということを示している。それは当然と言えば当然のことだが、このあたりから歌と訳の層(レイヤ)の違いがはっきりしてくる。例えばこの歌の「春くる」が「春きぬる」と同じとし、それを完了形と見るべきとしているが、それは宣長の解釈であって、歌を身に引き寄せるという「遠鏡」の方向性に合ったものだが、歌そのものからは別のニュアンスを受け取る人もあるだろう。
 
 
○  詞をかへてうつすべきあり。「花と見てなどの見ては。俗言には見てとはいはざれば。花ヂヤト思フテと訳すべし。「わぶとこたへよなどの類のこたふるは。俗言には。こたふるとはいはず。たゞイフといへば。難儀ヲシテ居ルトイヘと訳すべし。又てにをはをかへて訳すべきもあり。「春は来にけりなどのはもじは。春ガキタワイと。ガにかふ。此類多し。又てにをはを添フべきもあり。「花咲にけりなどは。花ガ咲タワイと。ガをそふ。この類はことにおほし。すべて俗言には。ガといふことの多き也。雅言のをも多くはガと云へり。「花なき里などは。花ノナイ里と。ノをそふ。又はぶきて訳すべきもあり。「人しなければ。「ぬれてをゆかむなどの。もじもじなど。訳言[ウツシコトバ]をあてゝは。なか/\にわろし。
 
 
  このあたりから助詞などがひらがなに交じって見づらいので、適当にその部分を太字にした。
  さて、この項では訳にあたって、言葉を変える「べき」(と宣長が思う)ものについて述べている。
  1019番 の「花と見て」などに出てくる「見て」や、937番 や962番 の「わぶとこたへよ」にある「こたふる」を例にあげているが、43番 の「花と見て」は「花ガアルトミテハ」と訳しており、そのあたりは臨機応変に、ということであろう。
  「てにをは」の変更・足し・引きの例については次の通り。

・変更(「は」を「ガ」に) 「春は来にけり」 1番    4番
・足す(「ガ」を) 「花咲にけり」 218番
・足す(「ノ」を) 「花なき里」 9番    31番(花ト云モノヽ昔カラナイ里)
・引く(「し」を) 「人しなければ」 224番(ヨイワヌレテイカウゾ)
・引く(「を」を) 「ぬれてをゆかむ」 88番(人ハナケレバ)  322番(人ガナイヂヤニヨツテサ)
 
 
○  詞のところをおきかへてうつすべきことおほし。「あかずとやなく山郭公などは。郭公を上[カミ]へうつして。郭公ハ残リオホウ思フテアノヤウニ鳴クカと訳し。「よるさへ見よとてらす月影は。ヨルマデ見ヨトテ月ノ影ガテラスとうつし。「ちぐさに物を思ふころ哉のたぐひは。ころを上にうつして。コノゴロハイロ/\ト物思ヒノシゲイコトカナと訳し。「うらさびしくも見えわたるかなは。わたるを上へうつして。見ワタシタトコロガキツウマア物サビシウ見ユルコトカナと訳すたぐひにて。これ雅言と俗言と。いふやうのたがひなり。又てにをはもところをかへて訳すべきあり。「ものうかる音に鶯ぞなくなど。ものうかるねにぞと。もじは上にあるべき意なれども。さはいひがたき故に。鶯の下[シモ]におけるなれば。その心をえて訳すべき也。此例多し皆なすらふべし。
 
 
  俗言として聞きやすいように言葉の順序を変えて訳すこともある、と述べ、その例があげられている。

  157番    281番    583番    852番    15番
 
 
○  てにをはの事。もしは訳すべき詞なし。たとへば。「花ぞ昔の香ににほひけるのごとき。殊[コト]に力[チカラ]を入たるぞなるを。俗言には花ガといひて。その所にちからをいれて。いきほひにて。雅語のの意に聞カすることなるを。しか口にいふいきほひは。物には書とるべくもあらざれば。今はサといふ辞[コトバ]を添へて。にあてゝ。花ガサ昔ノ云々と訳す。もじの例。みな然り。こそはつかひざま大かた二つある中に。「花こそちらめ根さへかれめやなどやうに。むかへていふことのあるは。さとびごとも同じく。こそとといへり。今一つ「山風にこそみだるべらなれ。「雪とのみこそ花はちるらめ。などのたぐひのこそは。うつすべき詞なし。これはにいとちかければ。その例によれり。山風にぞ云々。雪とのみぞ云々。といひたらむに。いくばくのたがひもあらざれば也。さるをしひていさゝかのけぢめをもわかむとすれば。なか/\にうとくなること也。「たが袖ふれしやどの梅ぞも。「恋もするかな。などのたぐひのもじは。マアと訳す。マアはやがてこのの転れるにぞあらむ。疑ひのもじは。俗語にはみな。カといふ。語のつゞきたるなからにあるは。そのはてへうつしていふ。「春やとき花やおそきとは。春ガ早イノカ花ガオソイノカと訳すがごとし。
 
 
  この項から個別の言葉をどう訳すかという詳細に入る。(底本のまま写しているので濁点が欠けている部分もあるが、意味はわかるので修正していない。)
  この項で説明されている語は次の通り。

・強調の「ぞ」は「サ」とする。 例)  42番
・逆接の強調(〜こそ〜だけれど)に使われる「こそ」は「コソ」のままとする。 例)  268番
・単なる強調の「こそ」は「ぞ」と同じく「サ」とする。 例)  23番     111番
・類似のもの中からの強調を表わす「も」は「マア」とする。 例)  33番     469番
       490番    498番
       561番    565番
       579番
・疑問の「や」は「カ」とする。 例)  10番
 
 
○  は俗言にはすべて皆ウといふ。来んゆかんを。コウイカウといふ類なり。けん なんなどのも同じ。「花やちりけんは花ガチツタデアラウカ。「花やちりなんは。花ガチルデアラウカと訳す。さて此チツタデといふと。チルデといふとのかはりをもて。けんなんとのけぢめをもさとるべし。さて又語のつゞきたるなからにあるは。多くはうつしがたし。たとへば「見ん人は見よ「ちりなん後ぞ。ちるらん小野のなどのたぐひ。人へつゞき。後へつゞき。小野へつゞきて。は皆なからにあり。此類は。俗語にはたゞに。見ル人ハチツテ後ニチル小野ノのやうにいひて。見ヤウ人ハチルデアラフ後ニチルデアラウ小野ノ。などはいはざれば也。しかるに此類をも。しひて なん らんの意を。こまかに訳さむとならば。散なん後ぞは。オツヽケチルデアラウガソノ散タ後ニサと訳し。ちるらん小野のは。サダメテ此ゴロハ萩ノ花カチルデアラウガ其野ノ。とやうに訳すべし。然れども。俗語にはさはいはざれば。なか/\にうとし。同じことながら。「春霞たちかくすらん山の桜をなどは。山ノサクラハ霞ガカクシテアルデアラウニ。と訳してよろし。又かの見ん人は見よなども。見ヤウト思フ人ハとうつせば。俗語にもかなへり。歌のさまによりては。かうやうにもうつすべし。
 
 
・「ん」は「ウ」とする。  
・「花やちりけん」は「花ガチツタデアラウカ」とする。  
・「花やちりなん」は「花ガチルデアラウカ」とする。  
・「見ん人は見よ」は「見ヤウト思フ人ハ」とする。 例)  222番
・「ちりなん後ぞ」は「オツヽケチルデアラウガソノ散タ後ニサ」とする。 例)  67番     68番
・「ちるらん小野の」は「サダメテ此ゴロハ萩ノ花カチルデアラウガ其野ノ」とする。 例)  224番
・「春霞たちかくすらん山の桜を」は「山ノサクラハ霞ガカクシテアルデアラウニ」。 例)  58番
 
 
○  らんの訳はくさ/゛\あり。「春立けふの風やとくらんなどは。風ガトカスデアラウカと訳す。アラウらんにあたり。カ上のにあたれり。「いつの人まにうつろひぬらんなどは。イツノヒマニ散テシマウタコトヤラと訳す。ヤラらんにあたれり。「人にしられぬ花やさくらんなどは。人ニシラサヌ花ガ咲タカシラヌと訳す。カシラヌらんとにあたれり。又上に何[ナニ]などといふ。うたがひことばなくて。らんと結びたるには。ドウイフコトデといふ詞をそへてうつすも多し。又「相坂のゆふつけ鳥もわがごとく人や恋しき音のみ鳴らんなどは。人ガ恋シイヤラ声ヲアゲテヒタスラナクとうつす。これはとぢめのらんの疑ひを。上へうつして。と合せてヤラといふ也。ヤラはすなはち らんといふこと也。又「玉かつら今はたゆとや吹風の音にも人のきこえざるらんなどのたぐひも。同じく上へうつして。と合せて。ヤラと訳して。下ノ句をば。一向ニオトヅレモセヌと。落しつけてとぢむ。これらはらんとうたがへることは。上にありて下にはあらざればなり。
 
 
・「らん」は「アラウ」と訳す場合がある。 例)  2番
・また、「らん」は「ヤラ」と訳す場合もある。 例)  45番
・「人にしられぬ花やさくらん」は「人ニシラサヌ花ガ咲タカシラヌ」とする。 例)  94番
・疑問の「や」を伴わない「らん」は「ドウイフコトデ」と添えて訳すことも多い。  
・疑問の「や」を伴う「らん」は「ヤラ」とする。 例)  536番    762番
 
 
○  らしは。サウナと訳す。サウナは。さまなるといふことなるを。音便[オンベン]にサウといひ。をはぶける也。然れば言の本の意も。らしとおなじおもむきにあたる辞なり。たとへば物思ふらしを。物ヲ思フサウナと訳すが如き。らしもサウナも共に。人の物思ふさまなるを見て。おしはかりたる言[コトバ]なれば也。さてついでにいはむは世にらんらしとをただ疑ひの重きと軽きとのたがひとのみ心得て。みづからの歌にも。そのこゝろもてよむなるはひがことなり。たとへば。時雨ふるらんは。時雨ガフルデアラウ也。時雨ふるらしは。時雨ガフルサウナの意也。此俗言のアラウとサウナとの意を思ひて。そのたがひあることをわきまふべし。
 
 
・「らし」は「サウナ」とする。  
・「時雨ふるらん」は「時雨ガフルデアラウ」。  
・「時雨ふるらし」は「時雨ガフルサウナ」。 例)  284番
 
 
○  かなはさとびごとにもカナといへど。語のつゞきざまは。雅言のままにては。うときが多ければ。つゞける詞をば。下上におきかへもしあるは言をくはへなどもして訳すべし。すべて此辞は。歎息[カナゲキ]の詞にて心をふくめたることおほければ訳にはそのふくめたる意の詞をも。くはふべきわざなり。
 
 
・「かな」は「カナ」とし、歎きのニュアンスを訳に入れる。  
 
 
○  つゝの訳は。くさ/\あり。又雪はふりつゝなど。いひすてゝとぢめて。上へかへらざるは。テと訳して下にふくめたる意の詞をくはふ。いひすてたるつゝは。必下にふくめたる意あれば也。そのふくめたる意は。一首[ヒトウタ]の趣にてしらる。
 
 
・「つつ」と余韻を残して終る場合は「テ」と訳し、その含みの訳を後に付加する。 例)  3番   5番   21番
 
 
○  けり ける けれは。ワイと訳す。「春は来にけりを。春ガキタワイといへるがごとし。またこその結びにも。ワイをそへてうつすことあり。語のきれざるなからにあるける けれは。ことに訳さず。
 
 
・「けり」「ける」「けれ」は「ワイ」とする。 例)  1番     4番
・ただし語の切れ目にある場合のみとする。  
 
 
○  なり なる なれは。ヂヤと訳す。ヂヤは。デアルのつゞまりて。ルのはぶかりたる也。さる故に東の国々にては。ダといへり。なりももとにありのつゞまりたるなれば。俗言のヂヤ ダと。もと一つ言なり。又一つ「春くれば雁かへるなり。「人まつ虫の声すなり。などの類のなりは。あなたなることをこなたより見聞ていふ詞なれば。これはアレ雁ガカヘルワ。アレ松虫ノ声ガスルワなど訳すべし。此なりはヂヤと訳すなりとは別にて。語のつゞけざまもかはれり。ヂヤとうつす方は。つゞく詞よりうけ。此なりは。切るゝ詞よりうくるさだまりなり。
 
 
・「なり」「なる」「なれ」は「ヂヤ」とする。  
・「にあり」->「なり」と「デアル」->「ヂヤ」(「ダ」)は同根であり、断定を表わす。  
・ただし直前で切れる言葉に付く「なり」は断定ではなく推定を表わす。 例)  30番     202番
 
 
○   ぬる つるたり たる など。既に然るうへをいふ辞は。俗言には。皆おしなべてタといふ。なりぬ なりぬるをば。ナツタ。来つ 来つるをば。キタ。見たり 見たるをば。見タ。ありき ありしをば。アツタといふが如し。タは。タルのルをはぶける也。
 
 
・既知のことや完了していることを表わす「ぬ」などの言葉は「タ」とする。  
・「タ」は「タル」から「ル」を省いたものである。  
 
 
○  あはれを。アヽハレと訳せる所多し。たとへば。「あれにけりあはれいくよのやどなれやを。何ン年ニナル家ヂヤゾヤ。アヽハレキツウ荒タワイと訳せる類なり。かく訳す故は。あはれはもと歎息[ナゲク]こゑにてすなはち今世の人の歎息[ナゲキ]てアヽヨイ月ヂヤ。アヽツライコトヂヤ。又ハレ見事ナ花ヂヤ。ハレヨイ子ヂヤなどいふ。このアヽとハレとをつらねていふ辞なればなり。「あはれてふことをあまたにやらじとや云々は。花を見る人の。アヽハレ見事ナといふその詞をあまたの桜へやらじと也。「あはれてふことこそうたて世の中を云々は。アヽハレオイトシヤト人ノ云テクレル詞コソ云々なり。大かたこれらにて心得べし。さてそれより転りては。何事にまれ。アヽハレと歎息[ナゲ]かるゝことの名ともなりて。あはれなりとも。あはれをしるしらぬなども。さま/゛\ひろくつかふ。そのたぐひのあはれは。アヽハレと思はるゝことをさしていへるなれば。俗言には。たゞにアヽハレとはいはず。そは又その思へるすぢにしたがひて。別[コト]に訳言あるなり。
 
 
・「あはれ」は「アヽハレ」とする。 例)  984番     136番
       939番
・「アヽハレ」とは、歎きを表わす「アア」と「ハレ」をつなげた言葉である。  
・ただし名詞化された「あはれ」は別とする。  

  「アヽ」の他に「アヽヽ」となっている所もある。「あー」と「あーあ」のニュアンスの違いか。
 
 
○  すべて何事にまれ。あなたなることには。アレ。或はアノヤウニ。又ソノヤウニなどいひ。こなたなることには。コレ。或は此ノヤウニなどいふ詞を添て訳せることおほきは。その事のおもむきをさだかにせんとてなり。
 
 
・距離感を表わすために「アレ/ソレ/コレ/此ノ」などの語を加えることがある。  
 
 
○  物によせて。その詞をふしにしたる。又物の縁[エン]の詞のよしなど。すべて詞のうへによれる趣は。雅言と俗言とは。ことごとなれば。たゞには訳しがたし。さる類は。俗語のうへにてもことわり聞ゆべきさまに。言をくはへて訳せり。
 
 
・物名や縁語などの言葉上の飾りについては意味を通すために言葉を加える。  
 
 
○  枕詞序などは。歌の意にあづかれることなきは。すてゝ訳さず。これを訳しては。事の入まじりて。なか/\にまぎらはしければなり。そも歌の趣にかゝれるすぢあるをば。その趣にしたがひて訳す。
 
 
・枕詞や序詞などは、意味を含まないと思われるものについては訳さない。  

  この項で細かい訳語の基本ルールの説明は終わる。
 
 
○  此ふみの書るよう。訳語のかぎりは。片仮字をもちふ。仮字づかひをも正さず。便[タヨリ]よきにまかせたり。訳のかたはらに。をり/\平仮字して。ちいさく書ることあるは。その歌の中の詞なるを。こゝは此ノ詞にあたれりといふことを。猶たしかにしめせる也。数のもじは。その句としめしたる也。又かたへに長くも短くも。筋を引たるは。歌にはなき詞なるを。そへていへる所のしるしなり。そも/\さしも多く詞をそへたるゆゑは。すべて歌は。五もじ。七もじ。みそひともじと。かぎりのあれば。今も昔も思ふにはまかせず。いふべき詞の。心にのこれるもおほければ。そをさぐりえて。おきなふべく。又さらにそへて。たすけもすべく。又うひまなびのともがらなどのために。そのおもむきをたしかにもせむとて也。(一)(ニ)(三)。あるは(上)などしるせるは。枕詞序など。訳をはぶけるところをしめせるなり。但しひさかたあしびきなど。人のよく枕詞と知りたるは。此しるしをはぶけり。一ニ三は句のついで。上はかみの句也。
 
 
  この項と次の項では本文の凡例が示される。
 
   
  底本でのサンプル( 507番-510番の部分 )          
 
(A)  訳の部分はカタカナで表わす  
(B)  横に小さくひらがながあるのは歌の語との対応箇所を明示するため  
(C)  横に小さく数字があるのは歌の句との対応を表わすため  
(D)  傍線は歌にない言葉を補足した部分のしるしである  
(E)  四角で囲った一、ニ、三や上などは枕詞序詞などを省略したマークで、
      一、ニ、三は何句目かを表わし、上は上句を表わす
 
 
 
○  うつし語のしりにつぎて。ひらがなして書ることあるは。訳の及びがたくてたらはざるを。たすけていへること。又さらでも。いはまほしきことども。いさゝかづゝいへるなり。
 
 
(F)  訳の後ろにひらがなで書かれている部分は注である

  ちなみに横井千秋の注は(G)のようになっている。
 
 
○  大かたいにしへの歌を。今の世の俗語にうつすすぢにつきては。猶いはまほしきことども。いと多かれど。さのみはうるさければ。なずらへてもしりねと。みなもらして。今はたゞこれかれいさゝかいへるのみなり。又今さだめたる。すべての訳どもの中には。なほよく考[カウガ]へなば。いますこしよくあたれることゞも。いでくべかンめれど。いとまいりて。此事にのみは。えさしもかゝづらはで。たゞ一わたり思ひよれるまに/\物しつる也。歌よく見しれらん人。なほまされるを思ひえたらむふしもあらば。くはへもはぶきも。あらためもしてよかし。
 
 
本居宣長    
 
 
  この部分も○つきで項立てしてあるが、これが「端書」の結語となる。
  ここには、口語訳はそれだけを見ればくだけた感じで、あたかものらりくらりと訳したようにも見えるけれども、自分は限られた時間の中である程度上のようなことを考慮に入れた上で訳したものである、という含みがあって、それを十分認識した上で、なお「歌よく見しれらん人」で、もっとよい案を持つものがあるならば、「くはへもはぶきも。あらためもしてよかし。」と言っている。宣長の門人である横井千秋は忠実にそれに従って注をつけていて、一箇所だけだが、ボソッと「よろしからず」と異を唱えている所もある。

  全体としてこの「端書」は、宣長の「遠鏡」についての方針や姿勢が見られてとても興味深いものがある。
  「遠鏡」が目標としてかかげている、口語訳によって歌本来の「いきほひ」や「趣」を表現する、という点については、当時と現代の言葉の差も含めて、やや伝わり難いところもあり、逆に歌と訳の温度差のようなものを感じないでもないが、「うちとけたる」言葉で、歌の本来の「意」を伝えようとしていることはよくわかる。
  また、訳から歌への可逆性ということを考えた場合、この「端書」で述べられている望遠鏡の喩えは、本文の中のズームしすぎて元がわからなくなるというパターンなどを見ると、なるほどと納得させられる。これは皮肉ではなく、そうしたことも変に取り繕わず、大胆かつ正直に自らの方針に従うという宣長の姿勢が、「遠鏡」を「楽しめる古今和歌集の訳本」としたのではないかと考えている。
 
[ ヘタ歌返し ]  鈴虫の露を集めて遠鏡映せば底に峰の白雲
( 2003/01/18 )