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津の国の難波の葦の芽がふくらみ、目の届く限り生い茂るような自分の恋心をあの人は知っているだろうか、という歌。
一般的にはこの歌の "芽もはるに" には、葦の 「芽も張る(=ふくらむ)」と 「目も遥に」が掛けられていると言われている。 「目も遥に」とは、貫之が 「土佐日記」の二月五日の部分で 「松原、目もはるばるなり。」と書いているのと同じことで、「目のとどく限り遥かに」という意味。
ちなみに賀茂真淵「古今和歌集打聴」では 「蘆(あし)の萌(め)もはるにてそれを春にいひかけたりいにしへは春に草木の繁き事をもはらよめりされば蘆の芽も春と成てしげきと云に我恋のしげきをいひかけて上は序也」として 「目も遥に」の解釈はとらず、同じ貫之の 9番の「木の芽もはるの 雪降れば」という歌からの引きを強く見ており、本居宣長「古今和歌集遠鏡」では逆に 「めもはるにといへるは。たゞ見渡しのはるかなる意のみなり。芦の芽又張る春などの意はなし。」と歌の中の "しげき" を重く見て「目も遥に」のみを見て「芽も張るに」の方を封じている。
「めもはるに」という表現は次の業平の歌にも見え、この貫之の歌もそれをふまえてのことと思われるが、業平の歌自体がわかりづらいので、あまり参考にはならない。
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