めのおとうとをもて侍りける人に、うへのきぬをおくるとてよみてやりける | 在原業平 | |||
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「おとうと」は弟あるいは妹を指し、ここでは妹のこととされる。つまり、「めのおとうとをもて侍りける人」とは 「妻の妹を妻としている人」ということ。この 「めのおとうとをもて侍りける人」が藤原敏行であるとする説もあるが仔細は不明。 「うへのきぬ」は、正装をする時につける 「袍(ほう)」という上着のこと。 紫の色が濃い時は目も遥かに、野にある草木は区別できないものだ、という歌。何を言っているのかよくわからない歌である。 "紫" はムラサキグサで、花の色は白、根を紫染めの染料とする。 「紫」を詠った歌の一覧は 652番の歌のページを参照。 "めもはるに" という表現は、604番の貫之の歌にもあり、「芽も張るに−目も遥に」という掛詞。 「目も遥に」は、一般的には 「目のとどくかぎり」という意味だとされる。 "別れざりける" は、「わか+れ+ざり+ける」で、四段活用の 「別く・分く」の未然形+可能の助動詞「る」の未然形+打消しの助動詞「ず」の連用形+詠嘆の助動詞「けり」の連体形。四段活用の 「別く・分く」は区別する、ということ。 「わかれ」を下二段活用の 「分かる」の未然形と見る説もある。その場合、下二段活用の 「分かる」は 「離れて別れる」という意味になる。 一般的にはこの歌の意味は、「紫の色濃き時」で妻に愛情が深い時を表し、一つ前の 867番の歌を前提に、「野なる草木」で妻の妹の夫を指して、親戚であるので大切に思うよ、ということであるとされる。 また、この歌は伊勢物語の第四十一段にもあり、その内容は次のようになっている。 |
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「女はらから」は姉妹。 「あてなるをとこ」が業平でその妻が姉とすれば、人間関係はこの歌の詞書と同じとなる。 「緑衫のうへのきぬ」は六位の官人用の緑色の袍(ほう)。 「見出でて」は見つけて。最後の 「武蔵野の心なるべし」とは、867番にもある「紫の ひともとゆゑに 武蔵野の 草はみながら あはれとぞ見る」と同じ心の歌であろう、ということ。 この話は古今和歌集の詞書とほぼ同じの 「かきつばた」(410番)や 「みやこ鳥」(411番)の第九段などとは違って、そのままに受け取ることはできないが、いくつか気になる点はある。 二人の姉妹とその夫 歌の中で 「野なる草木」が 「妻の妹の夫」を指すとすると、それが 「目も遥に」という遠い親戚 か、という疑問が起きる。例えば 「妻の妹」が多数いてそれぞれに夫がいるとすると、どれがどれ やらということになるが、上記の物語では姉妹を二人に絞り、その夫に「いやしき−あてなる」と 格差をつけることによって、「目も遥に」という関係の遠さを表しているようにも見える。 十二月のつごもりに衣を損ねる 袍(ほう)を贈るというのは普通に考えると昇進の祝いのように思えるが、物語の中ではそれを 年末ぎりぎりになって年明けすぐに必要となる衣を損なうという状況にしている。冬の終わりと「野 なる草木」という歌の季節感には少しずれが感じられる。 「妻(め)が衣を張る」という部分は「めも はるに」からの駄洒落の着想であろう。その夫への直接の贈り物ではなく、妻の妹を不憫に思っ て、というところも 「紫」を妻と見立てていることを補強している。 緑衫のうへのきぬ 「野なる草木」の緑に袍(ほう)の色を合わせていると思われる。少し関連付けがくどすぎるよう な気もするが、やはり物語としてはこの点は、はずすことができないのだろう。また、「見出でてやる」と言ってもサイズの採寸などはどうしたのかなどの詮索は物語なので考えるだけ無駄か。 古今和歌集の歌という観点から見ると、その情報源は詞書にしかなく、そこでは 「めのおとうとをもて侍りける人」の位も、「うへのきぬ」の状態について触れられていないので、「うへのきぬ」が何色だったかは判断できない。 「黒に近い濃い紫」だったか、「緑」だったか、「縹色(はなだいろ:=藍色)」だったか。 ただ、上位の人が下位の人から贈られた袍(ほう)を身につけるとも思われないので、業平の最高位が従四位上だったことは考えに入れておく必要があると思われる。 また、古今和歌集の配列で見ると、この歌の 「紫」は直前の 867番の歌からつながり、「別れざりける」が四段活用の 「別く」ならば、それは 866番の歌の「時しもわかぬ」からつながり、さらに衣を贈るということで、直後の 869番の近院右大臣(=源能有)の歌に続くように置かれている。 |
( 2001/11/07 ) (改 2004/01/29 ) |
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