女のおやの思ひにて山寺に侍りけるを、ある人のとぶらひつかはせりければ、返り事によめる | 読人知らず | |||
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詞書の意味は 「妻の親の喪中として山寺にいた時、ある人が様子を尋ねてきたので、その答えに詠んだ」歌ということ。普通に読めば 「女のおやの思ひにて」は 「(作者が)女のおやの思ひ/にて」と思われるが、「古今和歌集全評釈(下)」 (1998 片桐洋一 講談社 ISBN4-06-208753-7) のように、これを 「女が(自分の)おやの思ひにて」と見る説もある。 歌の意味は、このように今は山辺に住んで、喪服の袖は乾く間もない様子でいます、ということ。 「墨染め」の 「墨」が 「住み」に掛けられている。 この歌は 「兼輔集」にあるが、ある本では詞書がなく、別の本では 「おやの思ひにて山寺にこもれるにいづくにぞと人のたづねたりける返事に」となっているようで、はっきりしない。つまり、
ちなみに、藤原兼輔は 877年生まれで、古今和歌集成立とされる 905年には二十九歳で従五位下であり、906年に従五位上、915年に正五位下、917年に従四位下、921年に参議、922年に従四位上、927年に従三位・中納言となり、933年に没している。また、兼輔は藤原定方の娘の一人を妻とし、二人の間には藤原桑子という娘をもうけたが、定方の死は932年なので、ここで言う「女の親」が定方を指しているとは思えない。 「兼輔集」側から見れば、この歌が 905年以降に古今和歌集に入れられたとしても 910年代までならば、兼輔が自分の親の喪中で 「山寺に侍りける」状態が数日続いてもおかしくはないように思われる。この歌が 「兼輔集」にあるということを重く見るならば、古今和歌集の詞書の 「女の」という部分をはずして見るのが自然か。古今和歌集に 「読人知らず」とあって、「兼輔集」に載っている歌としては 719番の「忘れなむ 我をうらむな 郭公」という歌もある。 「とぶらひ」に対する返事の歌としては、「左近将監とけて侍りける時に、女のとぶらひにおこせたりける返事によみてつかはしける」という詞書を持つ次の小野春風の歌が思い出される。 |
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( 2001/08/12 ) (改 2004/01/26 ) |
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