左近将監とけて侍りける時に、女のとぶらひにおこせたりける返事によみてつかはしける | 小野春風 | |||
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歌の意味は、せっかく便りをいただいたが、今は訪ねて行くまいと思います、解任されて役職もなく、自分が誰だかわからないような状態ですから、ということ。 "天彦" は、山彦・こだまのことだが、1002番の貫之の長歌に「天彦の 音羽の山の 春霞」とあるように、「音」にかかる枕詞としても使われる。 「おとづる(訪る)」は 「音づる」とも書かれ、「音をたてる」という意味もあるので、ここではそれに掛けられている。 「おとづる」という言葉を使った歌の一覧は 327番の歌のページを参照。ただし、"おとづれじ" を 「おとづれし」と見る解釈もある。その場合、相手からの便りを「天彦」と見て、自分を失っている時によく声をかけてくれば、という感じになるだろうか。 どちらの解釈でもかまわないような気がするが、"今は思ふ" を重く見ると「じ」の方がやや強いか。想像としては、解任されて気持ちが沈んでいる春風に対して、女が 539番の「うちわびて よばはむ声に 山彦の 答へぬ山は あらじとぞ思ふ」という歌(これは恋歌だが)を送ってなぐさめたものに対する返しと見てみたいような気もする。古今和歌集の配列的には、続く平貞文の次の歌が 「いでがてにする」と言っている部分につながるようにも思われる。 |
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ちなみに古今和歌集の作者のうち、左・右近衛将監(あるいは少将)の経験者には次のような人々がいる。 |
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また素性法師や壬生忠岑が左近衛将監であったことがあるという説もあるが定かではない。素性法師については、大和物語の百六十八段に僧正遍照の子の話として、「太郎は左近の将監にて殿上してありける」とあるが、素性法師は遍照の長男ではないとされるので、これは素性の兄の由性についての記述かとされている。壬生忠岑については、元永本の古今和歌集に「兵衛府生より左近将監にまかりわたりて、舎人どもに酒たびけるついでによめる」という詞書で壬生忠岑の名で 柏木の 森のわたりを うち過ぎて 三笠の山に 我はきにけり という歌が 870番の後ろにあるが、これだけを根拠に忠岑が左近衛将監であったとは言いづらい。 878年三月に蝦夷が秋田城を落とすという 「元慶の乱」が発生し、太政大臣・藤原基経は従五位上の藤原保則の進言により、小野春風を鎮守将軍に抜擢してその鎮圧に向かわせ、その結果、乱はその年の終わりまでに収束した。こうした春風の実績を見ると、「仮名序」の中で 「猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり」と書かれていることが思い出される。 三善清行が907年に書いた 「藤原保則伝」によると、この鎮守将軍に抜擢される前年に 「前右近近衛将監」の春風は謗り(そしり)を受けて官を解かれ、家居していたとされている。 「左近」と 「右近」の違いが気になるが、この歌はその時期を指しているように思われる。 |
( 2001/11/26 ) (改 2004/02/08 ) |
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