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一体、誰に「見よ」として、花が咲いたのだろうか、ここはすでに白雲が立つ野となってしまっているものを、という歌。
賀茂真淵「古今和歌集打聴」では 「白雲のたつ野とは此比も専ら火葬しつれば雲煙共にそれによせたり」として、この歌の "白雲" を火葬の煙に掛けていると見ているが、それに対し、本居宣長は「古今和歌集遠鏡」の中で 「打聞に。三四の句を火葬のけぶりによせたりとあるは。わろし。」と述べ、「此ノ家ノ此花ハ タレニ見ヨトテ咲タコトヤラ 亭主ハ死ナレテ 此ノ庭ハモハヤ今デハ里遠イ野ノヤウニナツテシマウタ物ヲ 花ガ咲タトテタレガ見ヤウゾ」と訳している。
この宣長の訳について言えば、853番の「虫の音の しげき野辺とも なりにけるかな」という御春有輔の歌からの連想で、"野" を 「亡くなった人の庭」と見、50番の「山高み 人もすさめぬ 桜花」という歌などからの連想で、それが「人里離れた場所になった」ととることは十分可能だが、「白雲のたつ」を単に遠い場所を表す修飾として、「里遠イ野」と 「白雲」を完全にはずしているのは少し行き過ぎのようにも見えるが、「立つ−発つ」の掛詞で 「亭主ハ死ナレテ」の部分にそのニュアンスを残しているのだろう。 「白雲」を使った他の歌の一覧については 30番の歌のページを参照。
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