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       寛平の御時なぬかの夜、うへにさぶらふをのこども、歌たてまつれと仰せられける時に、人にかはりてよめる 紀友則  
177   
   天の河  浅瀬しら浪  たどりつつ  渡りはてねば  明けぞしにける
          
        天の川の浅瀬を白波にそってたどってみたが、渡りきれずに夜が明けてしまった、という牽牛の立場に立って詠まれた歌である。

  ただし、詞書によるとこの歌は、宇多天皇の時代(寛平の御時)、七夕の夜に天皇から殿上人たちに歌を奉れといわれたことがあって、その時にある人に代わって詠んだもの、ということであるので、それを前提に見れば、この歌は 「あれこれ考えたのですが、結局歌が出来ませんでした」という意味にもとれる。詞書の指す状況からはどことなく 161番の「ほかになく音を 答へやはせぬ」という躬恒の歌を思い出させる。

  牽牛が天の川を渡らないということについては、何か故事があるのかもしれないが不明である。もしかすると空の天の河に雲がかかってさえぎっている様を "しら浪" に譬えたのかもしれない。また、 "しら浪" は、文法的には 「知ら+な+み」ととるのは無理があって、ここに掛詞はないとする説が一般的だが、「天の河」「浅瀬」「白波」という名詞の三連続は、341番の「昨日と言ひ 今日とくらして 明日香河」という歌を思い出させ、やはり何か駄洒落が含まれているような気がする。一応ここでは、「浅瀬」の 「あさ」に "明けぞしにける" の関連で 「朝」を、「白波」の 「しら」に 「知らず」を見て、「朝まで探しても浅瀬の場所がわからない」という意味を込めていると見ておきたい。

  また、牽牛の天の川渡りを詠った歌としては、次の藤原兼輔の歌がある。これには「七月六日たなばたの心をよみける」という詞書がついて、待ちきれないから一日早く渡ってしまおうという誹諧歌である。

 
1014   
   いつしかと  またく心を  脛にあげて   天の河原を  今日や渡らむ
     

( 2001/12/06 )   
(改 2004/02/23 )   
 
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