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       題しらず 小野美材  
229   
   女郎花  おほかる野辺に  宿りせば  あやなくあだの  名をやたちなむ
          
     
  • あだ ・・・ 移ろいやすい、無益な (徒)
  小野美材(よしき)は小野篁の孫で、897年従五位下、902年没。 897年に大内記に任じられている。内記は中務省に属し詔書・勅旨や位記の起草を行なう職で、大内記・少内記が各二名でその任にあたった。ただし契沖「古今余材抄」の仮名序の「大内記きのとものり」の部分に「
職原抄云大内記一人相当正六位上...」という注があり、大内記の定員は一人だったのかもしれない。

  古今和歌集の歌人で大内記・少内記の経験者を、
「古今和歌集全評釈(下)」 (1998 片桐洋一
 講談社 ISBN4-06-208753-7)
 の巻末にある作者名索引に付けられている「古今和歌集目録」の校訂の記述を元に並べてみると次のようになる。

 
     
 828年   8月  大内記  小野篁  802 - 852
 二十七歳
 大内記: 小野篁 (/[?])
 少内記: [?]/[?]
 866年   1月  少内記  藤原敏行    大内記: [?] (/[?])
 少内記: 藤原敏行/[?]
 870年   2月  大内記  藤原敏行  生没年不詳  大内記: 藤原敏行 (/[?])
 少内記: [?]/[?]
 870年   2月21日  少内記  都良香  834 - 879  大内記: 藤原敏行 (/[?])
 少内記: 都良香/[?]
 871年   3月 (?)  少内記  菅原道真 (*1)  845 - 903  大内記: 藤原敏行 (/[?])
 少内記: 菅原道真/[?]
 875年   1月13日  少内記  紀利貞    大内記: [?] (/[?])
 少内記: 紀利貞/[?]
 879年   1月11日  大内記  紀利貞  ?- 881  大内記: 紀利貞 (/[?])
 少内記: [?]/[?]
 891年   3月9日  少内記  藤原菅根    大内記: [?] (/[?])
 少内記: 藤原菅根/[?]
 894年   1月15日  大内記  藤原菅根  855 - 908
 四十歳
 大内記: 藤原菅根 (/[?])
 少内記: [?]/[?]
 894年   1月15日  少内記  小野美材    大内記: 藤原菅根 (/[?])
 少内記: 小野美材/[?]
 897年   7月22日  少内記  矢田部名実    大内記: [藤原菅根 ?] (/[?])
 少内記: 小野美材/矢田部名実
 897年   7月23日  大内記  小野美材  ?- 902  大内記: 小野美材 (/[?])
 少内記: 矢田部名実/[?]
 898年   1月29日  少内記  紀友則    大内記: 小野美材 (/[?])
 少内記: 矢田部名実/紀友則
 899年   ?月11日  大内記  矢田部名実  ?- 900  大内記: 矢田部名実 (/[?])
 少内記: 紀友則/[?]
 900年   8月  少内記  平中興    大内記: [?] (/[?])
 少内記: 紀友則/平中興
 900年   8月20日  大内記  平中興  ?- 930  大内記: 平中興 (/[?])
 少内記: 紀友則/[?]
 904年   1月25日  大内記  紀友則  生没年不詳  大内記: 紀友則 (/[?])
 少内記: [?]/[?]
 910年   2月  少内記  紀貫之    大内記: [?] (/[?])
 少内記: 紀貫之/[?]
 913年   4月  大内記  紀貫之  872? - 945?  大内記: 紀貫之 (/[?])
 少内記: [?]/[?]
 917年   1月29日  少内記  坂上是則    大内記: [?] (/[?])
 少内記: 坂上是則/[?]
 921年   1月30日  大内記  坂上是則  生没年不詳  大内記: 坂上是則 (/[?])
 少内記: [?]/[?]

 
      (*1)  菅原道真が少内記になった年の記述は「古今和歌集目録」にはない

 

        これを見ると、だいたい少内記になって三〜五年後に大内記に進んでいる。大内記が別の職に移るか病などで職を離れると、少内記から新しい大内記が選ばれ、その空いた少内記のポストを新しい人材で補充する、という感じだろうか。

  小野美材が少内記になったあたりから見てゆくと、当時の大内記には 212番の歌の藤原菅根がおり、その菅根が897年に「
七月十三日従五位下  十七日勘解由次官  廿六日式部少輔」(「古今和歌集目録」)となるのと入れ替わりに、美材が大内記となる。そしてその任期中に紀友則が少内記となり、899年に美材が「昌泰二年二月十一日兼伊予権介」となって、大内記を 444番の歌の矢田部名実(やたべのなざね)に引き継ぐ。「古今和歌集目録」の矢田部名実の項は「九年七月廿二日任少内記  昌泰二年□月十一日転大」(九年は寛平九年)となっていて大内記に転じた月がつぶれているようだが、美材の項から二月と見てもよいような気がする。

  そして900年に平中興(たいらのなかき)が大内記となるのだが、この任命は「
三年八月任少内記  同月廿日転大内記」(三年は昌泰三年)というように、一ヶ月以内で少内記→大内記という急な人事である。一方、当時の大内記である矢田部名実の項では「三年□月□日卒」となってまた日付がわからないが、どうも矢田部名実の急逝か病のために、少内記になったばかりの中興が大内記に抜擢されたように見える。

  この時、友則は 898年から少内記だったにもかかわらず、大内記には任じられず、904年になって中興が「
四年正月七日叙従五位下  廿五日任遠江守」(四年は延喜四年)と遠江守になるのと入れ替わりに大内記となっている。

  さて、歌の方は、
女郎花が多く咲いている野で寝れば、いわれのない浮名を立ててしまうことになるだろう、ことで、古今和歌集の配列からすれば、直前の 228番の藤原敏行の「宿りはすべし 女郎花」に対するように置かれている。大内記つながりというわけではなく、ただの偶然だろうが、美材の歌としては次のようなものが恋歌二に採られていて、それもまた藤原敏行の歌の後にある。どちらも無難な美材の詠み振りを示しているといえるだろう。

 
560   
   我が恋は  み山隠れの  草なれや  しげさまされど  知る人のなき
     
          また、この歌では "名をやたちなむ" という部分が少し気になる。 「なむ」は完了の助動詞「ぬ」の未然形+推量の助動詞「む」で、助動詞「ぬ」は連用形に付くので、「たち」は四段活用の動詞「たつ」が元であり自動詞である。一方 「をや」は格助詞「を」+係助詞「や」で、908番の 「世をやつくさむ」のように後ろに他動詞がくるのが普通である。しかし、この場合、下二段の「たつ」(他動詞)を使って「名をやたなむ」では、自分が立てているようで不自然であり、「名を立てたくないのだけれど、立ってしまうだろう」という他動詞と自動詞が入り交ざった気持ちが一つのフレーズに集まったものと見ておきたい。

  「あやなし」という言葉を使った歌の一覧は 477番の歌のページを、「あだ」という言葉を使った歌の一覧は 62番の歌のページを参照。

 
( 2001/08/10 )   
(改 2004/02/24 )   
 
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