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山川に風がかけた「しがらみ」の正体は、流れることができない紅葉であった、という歌。
「ぞ・なむ・や・か・こそ」などの強調の言葉を使わず、抑えた口調でありながら、"紅葉なりけり" という終句が際立っている歌である。何気ない自然な詠いぶりのようだが、紅葉が川をふさぐように集まっているのを見て、そこから 「風によるしがらみ」という言葉が浮ぶのが第一段階、それを 「秋のしがらみ」として 「風」を外に出して 「山川の/流れもあへぬ/もみぢ葉は/風のかけたる/秋のしがらみ」というように言葉を集めるのが第二段階、それをさらにこの歌のように整えるのが第三段階、と見ると興味深い。この歌は百人一首にも採られていて有名だが、百人一首の古注では特に 「風のかけたるしがらみ」という表現が賞賛されている。 「米沢本 百人一首抄」においては 「金玉(きんぎょく)なり」とされているらしい。(「百人一首 全訳注」 有吉保 (1983 講談社学術文庫614 ISBN 4-06-158614-9))
確かにその言葉の位置の置き方はすばらしいが、それよりも、この歌で唯一気持ちの揺らぎを感じる 「も」を含んだ "流れもあへぬ" の方が誉められてもよいのではないか。流されるでもなく積もるでもなく、水の上で行き場もなく、わずかに動く紅葉の様子が、目に見えない 「風のしがらみ」に捕らえられているイメージがうまく表現されている。 「あへぬ」という言葉を使った歌の一覧については 7番の歌のページを参照。
また、恐らく "しがらみ" の中には 「志賀」が掛けられているのだろう。その駄洒落が貫之などの歌と違って露骨でないので、偶然のようにも思えるが、古今和歌集に採られている春道列樹のその他の二つの歌を見ると、なかなかの駄洒落のセンスの持ち主であったことがわかる。
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