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風が吹くと落ちる紅葉、水が清らかなために、散らないものまで水底に映って見えている、という歌。わかるようなわからないような歌である。本居宣長は「古今和歌集遠鏡」で最後を 「ハヤ大分チツタヤウニ見エル」と補って訳していて、これだとわかりやすい。
風によって枝から離れる紅葉が水面を覆うほどであれば影が映らなくなり、また風も強すぎれば波が立って影を映すことができなくなる。微風程度に吹く風に、落ちる紅葉のうち何枚かが池に浮かび、そのまわりにはまだ落ちない葉を付けた枝ぶりが透明度の高い水に映っている。虚像の上に実像が落ちて行くという美しいイメージの歌だが、完全に言葉がイメージに負けている。不器用な手先で作った針金細工、映った影だけ美しい、という感じで、ただしこれも躬恒の一つの味である。
"底" は池が浅くて本当の 「水底」とも考えられるが、どちらかというと影を反射している 「水面」が下にあることを 「底」と言っているように思われる。似たような 「底」の使い方は次の貫之の歌にも見られる。これら二つの歌は、躬恒と貫之の影がそれぞれの 「ほとり」にたたずんでいるかのようにも見えて面白い組み合わせである。 "水清み" のような 「名詞+形容詞の語幹+み」というかたちの言葉を使った歌の一覧は 50番の歌のページを参照。 「清し」という言葉を使った歌の一覧については 925番の歌のページを参照。
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