題しらず | 読人知らず | |||
7 |
|
"をりければ" は、昔から 「折る(四段活用)」か 「居り(ラ変)」かという問題があり、どちらも連用形は 「をり」なので文法的には区別がつかない。一般的には 「居り」と解釈されるが、ここでは 「折る」としてみた。この二つを検討してみると次のようになる。 (A) 折りければ、とする解釈 直前の6番の素性法師の歌にも「春たてば 花とや見らむ 白雪の かかれる枝に」とあり、この歌 でも の"消え あへぬ雪" のある場所は 「枝」であることは、「折る」でも 「居り」でも同じだが、 「枝」からは 「折る」の方が連想しやすく自然である。 雪が花でないことは十分わかっているが、それでも春に梅や桜を手折るように、雪の残った枝を 折ってみると、春を思う心からそれが花のように感じられる、という意味である。 (B) 居りければ、とする解釈 言葉が近ければ正しいわけではなく、この歌ではたまたま 「枝」というビジョンがあるだけで、 それを「折る」に結びつける必然性はない。古今和歌集には次のような 「居り」を使った歌がある。 |
153 |
|
|||||
216 |
|
|||||
1024 |
|
|||||
これらの「居り」は 「〜に」や複合語でその意味を強調されていはいるが、これらの歌を見れば、 「をりければ」は 「居りければ」であった方が自然である。枝を折れば雪は落ちてしまうもので、 それでは "消えあへぬ雪" という感じがしない。ここは 324番の「巌にも咲く 花とこそ見れ」と 同じく、少し離れた場所から見ているのである。 元々が不確定な歌なので、どちらの解釈をとってもかまわない気がする。 また、この歌には「ある人のいはく、さきのおほきおほいまうちぎみのうたなり」という左注が付いている。 「さきのおほきおほいまうちぎみ」とは藤原良房のことである。この歌が本当に良房の作である可能性もないわけではないが、52番の良房の歌に「花をし見れば」と 「〜し〜ば」のかたちがあり、「物思ひもなし」が "心ざし 深く染めてし" と 「思ひ」でつながり、加えてこの歌にある 「染」という文字が、良房の邸宅である染殿(娘の明子は染殿の后と呼ばれた)を思わせることから発生した風説ではないかと思われる。 そして古今和歌集の中でもう一つ「ある人のいはく、このうたはさきのおほいまうちぎみのなり」と左注のある 866番の歌に「かぎりなき 君がためにと 折る花は」とあることは、この歌の 「をりければ」を 「折る」とすれば、三つの歌がトライアングルを形成しているようにも見えて面白い。 また "消えあへぬ" の 「あへぬ」は 「あへ+ぬ」で、下二段活用の(補助)動詞「敢ふ(あふ)」の未然形+打消しの助動詞「ず」の連体形。「あへず(終止形)/あへぬ(連体形)」として次のような歌で使われており、209番の歌にある 「もみぢあへなくに」の 「あへなく」も 「敢ふ(あふ)」からきている言葉である。 「敢ふ」の元々の意味は、「耐える・こらえる」ということで、「動詞+あへず」は 「〜しきれない」という意味で使われる。 |
[あへ+ず] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
[あへ+ぬ] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
[あへなく] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
( 2001/10/12 ) (改 2004/01/12 ) |
前歌 戻る 次歌 |