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       題しらず 読人知らず  
308   
   刈れる田に  おふるひつちの  穂にいでぬは  世を今さらに  あきはてぬとか
          
     
  • ひつち ・・・ 自生する稲と言われるが仔細不明
  
刈った後の田に生える 「ひつち」が穂を出さないのは、何を今更ということで、世の中を飽きはててしまったということか、という歌。

  "ひつち" は、歌の内容から逆に推測すると、「一度穂を出し、刈り取られた後に再び生えてくる稲」のようである。 "あきはてぬ" の 「ぬ」は打ち消しの助動詞「ず」の連体形ではなく、完了を表わす助動詞「ぬ」の終止形。また " あきはてぬ" に 「秋果てぬ」の掛詞を見る説もある。 「一度刈られたのだからわかっているはずなのに、今更、世の中をもう秋が終わっている状態と見てのことか」というニュアンスであろうか。

  全体が厭世の雰囲気が漂うが、「刈れる田・ひつち・穂を出さない」が何の譬えであるかと考えはじめると、歌の意図がどうもわかりづらくなる。恋歌として見れば、「刈れる田」は失恋・破局で、それに懲りたからもう 「穂に出さない−気持ちを表に出さない」ということで、わかりやすいが、そう見てよいかどうかは微妙である。刈った後の田んぼのパッしない風景を自身の気持ちの状態に合わせて詠んだ歌と見ておきたい。 「穂に出づ」という表現を使った歌の一覧は 243番の歌のページを参照。

  「穂」ではないが、次の藤原菅根の歌の 「帆にあげて」という表現は、「穂に出づ」という言葉と似た感じがある。

 
212   
   秋風に  声を帆にあげて   くる舟は  天の門渡る  雁にぞありける
     
        また歌の内容的には、この歌は 467番の大江千里の「のちまきの おくれておふる 苗なれど」という 「ちまき」の物名の歌とペアで見たい気がする。

 
( 2001/12/04 )   
(改 2004/02/26 )   
 
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