Top  > 古今和歌集の部屋  > 巻十八

       友だちのひさしうまうでこざりけるもとによみてつかはしける 凡河内躬恒  
976   
   水の面に  おふる五月の  浮草の  うきことあれや  根を絶えて来ぬ
          
        詞書は 「友達が久しく訪ねてこないので、そのもとに詠んでおくった」歌ということ。何か 「憂きこと」があるためか、水の表面に生えている五月の浮草が根がないように、近頃はさっぱり音信もなく、訪れてくれないのだね、という歌。

  浮草の 「うき」を 「憂き」に掛け、浮草だから根がないということから 「音を絶えて」(音信もなく)来ない、とつなげている。ただし、
「古今和歌集全評釈  補訂版 」 (1987 竹岡正夫 右文書院 ISBN 4-8421-9605-X) のように 「根」に「音」を見ない説もある。

  「五月の浮草」と言ったのは、歌を送った時期を表しているのだろうが、462番の「夏草の 上はしげれる 沼水の」という忠岑の歌が思い出される。
「古今和歌集全評釈(下)」 (1998 片桐洋一  講談社 ISBN4-06-208753-7) では、この「五月」に梅雨の季節を見ている。契沖「古今余材抄」などでも指摘されている通り、この歌は万葉集・巻八1501の

    霍公鳥(ほととぎす)  鳴く峰(を)の上の  卯の花の  憂きことあれや  君が来まさぬ

という歌からの発想を思わせ、それはまた同じ躬恒の 164番の「郭公 我とはなしに 卯の花の」にもつながってゆくようでもある。 「根を絶えて」ということでは、 983番の小野小町の「わびぬれば 身を浮草の 根を絶えて」という歌を思い出させ、言葉の調子としては、この歌の出だしは次の読人知らずの歌と似たものが感じられる。

 
308   
   刈れる田に    おふるひつちの   穂にいでぬは  世を今さらに  あきはてぬとか
     

( 2001/10/05 )   
(改 2004/02/09 )   
 
前歌    戻る    次歌