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大空の月の光が清らかなので、その影を見た水が他のものに先駆けてまず凍った、という歌である。ただ、"影見し" と 「し」(回想の助動詞「き」の連体形)が使われているのを重視すべき、という考え方もある。
「古今和歌集全評釈(上)」 (1998 片桐洋一 講談社 ISBN4-06-205979-7) では、"影見し水" の語釈として「みずからが体験した過去を表す助動詞「き」の連体形「し」をつかっているから、作者がかつて見た 「水」でなければならない」とし、その 「鑑賞と評論」の部分で 「秋の月見の時に、水に映っている月を見たことを言っているのである。...八月十五夜に池に月を映して見たことを前提にして、「あの時の、あの月影を見た池こそ、この冷え冷えとした冬の月に最初に感応して、真っ先に氷った」と言っているのである。」と述べられている。
2番の貫之の「袖ひちて むすびし水の こほれるを」という歌を連想させる面白い解釈であるが、「大空」に月がある状態で、凍った水を前にして「自分がかつて月を見た水」と言うのはやはり無理があるように感じられる。また、本居宣長は「古今和歌集遠鏡」で 「昨夜ノソラノ月ガキツウサエタニヨツテ ソノ影ノ見エタ水ガサ ケサハアレアノヤウニ マヅ一バンニコホツタワイ」と、この歌を冬の朝の歌としているが、これは 「し」一文字に引っ張られすぎのように思われる。
ここでは冬の冴え渡る月を見た水が、瞼を閉じるように凍ったということで、その前に月の影を見たから 「影見し」である、と考えておきたい。
「月の光が清い」と詠う歌としては、他に次の尼敬信(あまきょうしん)の歌がある。この敬信の歌は、文徳天皇の皇女である慧子内親王が賀茂の斎院をはずされそうになった時のもので、「清し」は潔白であるというニュアンスが込められているようで、冬の月の 「清さ」とは若干異なるが、その 「冴え渡る」感じには共通するものがあるだろう。 「清し」という言葉を使った歌の一覧については 925番の歌のページを参照。
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