冬のうたとてよめる | 源宗于 | |||
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「枯る−離(か)る」を掛けたもので、「人目が離れる」とは、ここでは 「人の訪れがなくなる」と解釈してよいだろう。山里は冬になるとことに寂しさが増してくる、人も訪れず、草も枯れてしまうと思えば、という歌。 「枯る−離る」の掛詞は次のような歌でも使われている。 |
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似た表現として、45番の貫之の歌に「くるとあくと 目かれぬものを 梅の花」というものがあるが、その 「目かれぬ」の 「ぬ」は否定の助動詞「ず」の連体形で 「目を離さない、見飽きない」ということで、この歌の 「枯れぬ」の 「ぬ」は完了の助動詞「ぬ」の終止形で 「枯れてしまった」ということ。 「離る(かる)」という言葉を使った歌の一覧は 803番の歌のページを参照。 また、この宗于の歌は百人一首にも採られていて、"人目も草も" という言葉が目につくが、古今和歌集の配列の中で見れば、214番の忠岑の歌の「山里は 秋こそことに わびしけれ」に対して "冬ぞさびしさ まさりける" という対比になっている。 そしてこの歌の 「寂しさ−まさる」は、319番の歌で 「たぎつ瀬の音−まさる」、320番の歌で 「雪げの水−まさる」ということを経て、次の坂上是則の歌で、ようやく普通の 「寒さ−まさる」という言葉が出てくる。一種のじらしの効果のようにも見えなくもない。 |
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その後、この冬歌の 「まさる」の流れは、339番の元方の歌で 「雪も我が身も−ふりまさりつつ」とあって締め括られている。 |
( 2001/09/21 ) (改 2003/11/29 ) |
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