田むらのみかどの御時に、斎院に侍りけるあきらけいこのみこを、母あやまちありといひて斎院をかへられむとしけるを、そのことやみにければよめる | 尼敬信 | |||
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尼敬信(きょうしん)は藤原因香の母とも言われているが仔細不明。古今和歌集に採られているのはこの一首のみ。 詞書の意味は、「田村の帝(=文徳天皇)の時代に、斎院であった慧子内親王が、その母に過ちがあったとされ斎院を外されそうになったが、それが中止になったので詠んだ」歌ということ。 文徳天皇は田邑(たむら)の真原岡に葬られたので 「たむらのみかど」と呼ばれている。現在の文徳天皇陵は京都府京都市右京区太秦三尾(さんび)町にあるが、そこが本来の御陵だったかどうかは確かではないという説もある。 慧子内親王の母は藤原列子。慧子内親王は 850年七月に賀茂斎院に選ばれ、857年二月に退下し、代わりに同月、同じ文徳天皇皇女の述子内親王(その母は紀静子)が斎院となっている。古今和歌集で斎院と言えば、645番の「君やこし 我や行きけむ 思ほえず」という歌の恬子(やすいこ)内親王が思い出されるが、同じ文徳天皇皇女であるが、そちらは伊勢斎院である。また、「母に過ちあり」ということでは 769番の歌の貞登(さだののぼる)が連想されるが、貞登は仁明天皇の子で、その母は 152番に歌のある三国町である(三国町を紀種子とする説もあるが恐らく別人であろう)。ここで言われている藤原列子は藤原是雄の娘。 契沖「古今余材抄」によれば 「文徳天皇実録」に慧子内親王が斎院を述子内親王に交代する際の記述として、「遣右大臣正三位藤原朝臣良相於神社告事由 其事秘者世無知之也」とあり、何らかの「秘すべき事由」があったことをにおわせているが、この歌との関係は不明。 歌の意味は、大空を渡る月は清らかに照るので、雲が隠してもその光が消えないのですよ、ということ。 "光けなくに" の 「けなくに」は 「け+なくに」で、下二段活用の動詞「消ゆ」(=消える)の未然形+「なくに」。 「なくに」はここでは文末/区切れにあって否定の詠嘆を表すもの。 「〜なくに」という言葉を使った歌の一覧は 19番の歌のページを参照。 "照りゆく" という言葉の感じからすると、隠す雲をやがて抜けて再び清らかな光を現すと言っているようである。逆の意味の内容として、882番の「光とどめず 月ぞ流るる」という歌が思い出される。 「清し」という言葉を使った歌の一覧については 925番の歌のページを参照。 |
( 2001/12/11 ) (改 2004/03/12 ) |
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