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       藤原の三善が六十の賀によみける 在原滋春  
355   
   鶴亀も  千歳の後は  知らなくに  あかぬ心に  まかせはててむ
          
     
  • あかぬ心 ・・・ 満足しない心
  詞書にある「藤原の三善」は不明。在原滋春は業平の次男。またこの歌の左注には「このうたは、ある人、在原のときはるがともいふ」とあるが、「ときはる」自体が不明。

  "あかぬ心に  まかせはててむ" という部分の 「心」が誰の心なのかがわかりづらい。考えられるのは 「作者の心」「神の心」「相手の心」の三つだろうか。

  まず 「作者の心」と考えれば、
鶴亀も千年の後は知らないけれど、あなたの命を千年では足りないと思うこの私の心のままにお祝いを申し上げます、といったところだろうが、この場合、「はててむ」という部分のニュアンスが今ひとつである。

  「神の心」とするならば、鶴亀も千年の後は知らないけれど、あなたの命を千年では足りないと思う神様の心のままに後はおまかせいたします、という感じだろうが、この場合は 「あかぬ心」という部分に無理がありそうである。

  最後に 「相手の心」だとすると、鶴亀も千年の後は知らないけれど、それでも満足できないあなたの心のままに後はおまかせいたします、ということになるだろうが、これではまるで 「いつまで生きるんだ」と言っているようで、どうも投げやりである。

  賀歌では、次の素性法師が代作した歌のように祝う側も長寿を望むというパターンもあって様々であるので、この滋春の歌が何を言いたいのかは結局のところよくわからない。

 
356   
   万代を  松にぞ君を  祝ひつる  千歳のかげに    住まむと思へば  
     
        「鶴」を詠った歌の一覧は 919番の歌のページを参照。また、「まかす(任す)」という言葉を使った歌の一覧については 87番の歌のページを参照。

  "知らなくに" という言葉を使った他の歌としては、恋歌四に次の読人知らずの歌があるが、この 
「鶴亀」の歌は 「知らないのだから」という順接、次の 「ちぢの色」の歌は、意味的には 「心し秋の
 もみぢならねば」が先頭にくる倒置と考えられ、文末/区切りで否定の詠嘆、つまり 「わからないのですね」という感じであろう。 「〜なくに」を使った歌の一覧は 19番の歌のページを参照。

 
726   
   ちぢの色に  うつろふらめど  知らなくに   心し秋の もみぢならねば
     
        この滋春の歌はその内容よりも、「鶴亀も知らない」と詠われている千年以上後の世で、まだこの歌が読まれていることの方が驚きである。

 
( 2001/12/05 )   
(改 2004/02/12 )   
 
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