Top  > 古今和歌集の部屋  > 巻八

       紀のむねさだが東へまかりける時に、人の家にやどりて、暁いでたつとてまかり申ししければ、女のよみていだせりける 読人知らず  
377   
   えぞ知らぬ  今こころみよ  命あらば  我や忘るる  人やとはぬと
          
        詞書にある 「紀のむねさだ」は伝不詳。詞書の意味は 「紀のむねさだが東国に赴任する時、ある人の家に泊まって、夜明け前のまだ暗い時分、出発しますと言ったので、その家の女性が歌を詠んでさし出した」ということ。 「よみていだせりける」は 「詠んで送り出した」というようにも見えるが 「出だす」にはそのような意味はないようである。

  詞書で状況が説明されているにもかかわらず、意味のとりづらい歌である。先頭の "えぞ知らぬ" は「え知らぬ」が 「ぞ」で強調されたもので、「まったくわからない」ということ。

   "今こころみよ" の 「こころみ」は現代の 「試み」と同じで試すこと。この言葉を使った歌は、568番の藤原興風の「死ぬる命 生きもやすると こころみに」という歌のほか、次のような歌がある。

 
518   
   人の身も  ならはしものを  あはずして  いざこころみむ   恋ひや死ぬると
     
750   
   我がごとく  我を思はむ  人もがな  さてもや憂きと  世を こころみむ  
     
1025   
   ありぬやと  こころみがてら   あひ見ねば  たはぶれにくき  までぞ恋しき
     
        三句目の 「命」は、自分の命とも相手の命ともとれる。普通に考えれば 「貴方が行った後まで私の命があるなら」ということだろうが、直前の命令形からそのまま読めば「試みよ、貴方の命があるなら」と言っているようにも見える。問題は後半に持ち越されるが、この時点でも、"こころみよ" と
"命あらば" のズレが気になる。

  そして、"我や忘るる  人やとはぬと" の部分であるが、そのまま読めば「私が忘れるか、貴方が訪れないか」ということになる。旅行く人に 「貴方が訪れないか」と言うのもおかしな話で、ここにおいて読んでいる方が 「えぞ知らぬ」状態になってしまう。

  考えるに、これは 645番の「君やこし 我や行きけむ 思ほえず」という 「斎宮なりける人」の歌をベースにしたものではないだろうか。つまり、「
昨日の夜、私たちは本当に逢ったのでしょうか、悲しみに私の命がまだ消されていないなら、もう一度逢ってどちらか試してください、私が忘れてしまったのか、本当は貴方は来なかったのか」という感じか。

  なお、「紀のむねさだ」とこの歌については
「古今集人物人事考」 (2000 山下道代  風間書房
 ISBN 4-7599-1201-0)
 に「「きのむねさだ」をめぐって」という論考がある。

 
( 2001/11/26 )   
(改 2003/12/05 )   
 
前歌    戻る    次歌