源の実がつくしへ湯あみむとてまかりける時に、山崎にて別れ惜しみける所にてよめる | 白女 | |||
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作者の白女(しろめ)については不明。詞書にある源実(みなもとのさね)は生年不詳だが没年は 900年と言われる。 894年従五位下、897年正五位上。 「つくしへ湯あみ」は 「筑紫へ湯治」ということ。 「山崎」は現在の京都府乙訓郡大山崎町で、桂川・宇治川・木津川が合流して淀川になるあたり。 命さえ、心のままになるものならば、何で別れが悲しくありましょうか、という歌だが、この歌で問題なのは "命" とは誰の命なのか、ということである。 (A) 白女の命 (B) 源実の命 (A) は一般的な解釈で、「せめてこの命さえ自在になるなら、別れは悲しくないけれど」(=あなたが行ってしまうと私の命は自然に絶えてしまうような気がします)という意味になる。 一方、(B) の方は「古今集人物人事考」 (2000 山下道代 風間書房 ISBN 4-7599-1201-0) の 「源実をめぐる離別歌」という章で述べられている解釈で、「あなたの命さえ長らえてくれるのでしたら、この別れが悲しいということはありません」(=別れの悲しさよりあなたの命が大切です)ということになる。これは次の読人知らずの歌にもある問題で、微妙なところだが、どちらとも 「自分の命」(つまり(A))の方と考えた方が自然であるような気がする。 |
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あるいはお互いの命ということで、「この先、千年も万年も生きられるとしたら、再び逢えることがあるかもしれません、でもそんなことはないのです、ここでお別れしたらいつ逢えるとも知れず、それがただ悲しいのです」という感じか。 「だに」という言葉を使った歌の一覧については 48番の歌のページを参照。 この歌では反語として、 "なにか別れの かなしからまし" と言っているが、本当に 「別れが悲しくない」という、次の躬恒の兼覧王に会った時の歌などもある。ただこれは、次に逢えることが期待できるからこそのものであり、離別歌としては特殊な部類に入るものである。 |
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また、この歌の "かなしからまし" は、恋歌四に置かれている 「偽りがない世であれば...」という 712番の「いかばかり 人の言の葉 うれしからまし」という読人知らずの歌と並べて見たい。 「かなし」という言葉を使った歌の一覧については、578番の歌のページを参照。 |
( 2001/07/27 ) (改 2004/03/09 ) |
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