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       藤原の後蔭が唐物のつかひに、ながつきのつごもりがたにまかりけるに、うへのをのこども酒たうびけるついでによめる 平元規  
386   
   秋霧の  共に立ちいでて  別れなば  はれぬ思ひに  恋やわたらむ
          
        この歌の状況は一つ前の 385番の藤原兼茂の歌と同じで、藤原後蔭の送別の場での歌である。

  平元規(もとのり)は平中興(なかき)の子で 906年蔵人、908年従五位下、それからほどなくして没したと言われるから、父(930年没)よりも先に亡くなったことになる。また、父の中興が蔵人になったのは898年、そこから 900年に少内記・大内記となり従五位下を賜ったのは 904年、従五位上になったのは 915年であるから、908年に元規が従五位下になった時点では父子共に従五位下であったことになる。この点やや疑問が残るが、そういうこともあったのかもしれない。

  詞書にある後蔭が 「唐物の使い」に出向いたのはいつのことかは不明だが、この歌の作者の元規が 908年あたりに亡くなっており、唐物交易使が廃止され大宰府の役人にその役目が引き継がれたのが 909年ということからもそれ以前のことであることがわかる。

  
「古今和歌集全評釈(下)」 (1998 片桐洋一  講談社 ISBN4-06-208753-7) の巻末にある「古今和歌集目録」の記述によれば、後蔭・兼茂・元規が蔵人になったのは次のような時期である。
  • 藤原後蔭 ・・・ 897年五月十七日。七月十日又蔵人、先帝蔵人。912年蔵人。
  • 藤原兼茂 ・・・ 897年七月蔵人。901年一月七日従五位下。
  • 平元規 ・・・ 897年七月十日昇殿、非蔵人。906年蔵人。
  天皇が交代すると蔵人も任命され直すので、後蔭は一旦、五月十七日に宇多天皇の蔵人となったものの、七月三日に醍醐天皇が即位したために再び任じられたものと思われる。先帝蔵人とは先帝(ここでは宇多天皇)からそのまま引き継がれた蔵人という意味であろう。後蔭は 902年一月七日に従五位下、911年一月七日に従五位上、917年一月七日に正五位下、919年一月七日に従四位下。

  藤原兼茂も醍醐天皇の即位にあたって蔵人に補せられたのだろう。901年一月七日に従五位下、909年一月七日に従五位上、914年一月七日に正五位下、917年に従四位下。また、この 897年七月には藤原忠房、源実(891年の再任)も蔵人となっており、兼茂の弟の藤原兼輔(902年一月七日従五位下)も昇殿を許されている。 389番には源実が筑紫に湯浴みに行くのを見送る兼茂の歌がある。

  平元規は、後蔭が再任された同じ七月十日という日付で非蔵人(=蔵人の予備軍)として昇殿を許されている。 908年一月七日従五位下。

  これらのことからこの歌は醍醐天皇の蔵人たちの送別の会で、その時期は 897〜908年あたりの九月の終わりであるように思われる。

  歌の内容は、
秋霧が立ち、それと共にあなたが発って別れて行ってしまうと、霧がはれないようにいつまでも名残惜しさに心が晴れないことでしょう、ということ。シンプルな歌だが、 "共に立ちいでて" の 「共に」というニュアンスが少しわかりづらい。

  これは "秋霧" が主語で 「あなたが発つ時に秋霧も立つ」と解釈するのが一般的だが、送別の席で、かつ一つ前に兼茂の「もろともに なきてとどめよ きりぎりす」という歌もあるので、「あなたと共に我々がこの席を立ってその後別れると」というようにも読めないことはない。しかし、ここでは 
"秋霧" は単に 「立つ」を導くだけの序詞ではなく、その後の "はれぬ思ひ" にも掛かっているので、やはり 「秋霧」をメインに置いての歌と見た方が自然であろう。 「立ち出づ」という言葉を使った歌は古今和歌集の中に他にはないが、「立ちいでて別る」は 「立ち(いでて)別る」と見れば、「立ち別る」と同じ意味と考えることができる。 「秋霧」を詠った歌の一覧は 210番の歌のページを参照。

  ちなみにこの歌は、後蔭の名前をとって「後のかげを慕う」というシャレではないようである。

  古今和歌集に元規の歌はこの一つだけだが、その父の平中興の歌は次の二つが誹諧歌に採られている。

 
1048   
   あふことの  今ははつかに  なりぬれば  夜深からでは  月なかりけり
     
1050   
   雲 はれぬ   浅間の山の  あさましや  人の心を  見てこそやまめ
     

( 2001/10/15 )   
(改 2004/02/26 )   
 
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