朱雀院の奈良におはしましたりける時にたむけ山にてよみける | 素性法師 | |||
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また、この素性の歌の "神やかへさむ" とは、大げさに言えば 「神に拒絶されることの予感」であるが、その意味では次の読人知らずの歌にも通じるものが感じられる。 |
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この素性の歌の詞書は、一つ前の 420番菅原道真の歌の詞書から引き継いだもので、一般的には898年十月の宇多上皇の宮滝御幸の時のこと、とされている。 ただ、「扶桑略記」に収録されている、菅原道真の記録からの抜粋を見ると、もし「たむけ山」が京都と奈良の境の平城山(=奈良山:ならやま)だとすると、素性が上皇の一行と合流する前のことなので、そこに道真と素性が同時にいて歌を詠むというのは少しおかしい感じがする。 (こちらを参照のこと) この点について、顕昭の「古今集註」(1191年)のこの歌の注の部分に一つの説が述べられている。「日本歌学大系 別巻4」(1980 久曾神昇 風間書房)を元にその内容を見てみると次の通り。 |
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「扶桑略記」の記述と合わせて見ると、どうもこれは素性が上皇一行と合流し、その晩大和の国高市郡にある菅原朝臣の山荘に泊った10月23日のことと思われる。「後朝」(=翌朝)というのが少し気になるが、平城山を過ぎたのが10月22日で、その翌日ということだろうか。また、上記の「詞アマリテ〜」というのは、「扶桑略記」でいう「願減三字」あたりのことを指しているようだが、それは 「宮滝御幸記」にあった記述というより、顕輔あるいは顕昭の憶測のように感じられる。 この説を受け入れるかどうかは、藤原顕輔(1090-1155)が「宮滝ノ記」のオリジナルを見たということを信じるかどうかにかかっているが、顕輔の実子である藤原清輔(1104-1177)の 「袋草紙」の 「置白紙作法」という部分に次のような記述があり、どうも清輔も 「宮滝御幸記」を見ているようである。これもまた「日本歌学大系 第2巻」(1956 佐佐木信綱 風間書房)を元に読んでみるとその内容は次の通り。 |
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「やたがらす〜」の部分はわかりづらいが、「素性集」(「和歌文学大系18 小町集/業平集/遍照集/素性集/伊勢集/猿丸集」(1998 室城秀之・高野晴代・鈴木宏子 明治書院) ISBN4-625-51318-9))には、「「嶋の鴨、八咫烏をだいにて和歌たてまつれ」と仰せごとあれば、八咫烏を句の上に据ゑ、島の鴨を句のかみに据ゑて、旅の心を」という詞書がついて やまべにし たびの雲まま かりがねの らうたくもあるか すみかはるかも という素性の歌が載せられている。(この詞書の「島の鴨を句のかみに据ゑて」は 「しもに」の書き誤り、歌の部分の 「たびの雲まま」は「雲の間」の誤記とされている。) 上記の中の 「記云」というのは、道真の 「宮滝御幸記」であると思われ、藤原清輔はそこから引用しているように見える。その他、藤原定家(1162-1241)の「新勅撰集」(1235年)の巻八502の源昇の歌の詞書にも 「亭子院、宮滝御覧しにおはしましける御ともにつかうまつりて、ひくらし野といふ所をよみ侍ける」と宮滝御幸についてふれている。 「扶桑略記」の成立の年は不明だが、それを書いた皇円の没年は1169年であるので、藤原顕輔が 「宮滝御幸記」のオリジナルを見ている可能性は高いと思われる。 あとはそもそも 「宮滝御幸記」自体が道真の主観で書かれており、上記の 「袋草紙」や 「扶桑略記」に引かれている部分だけを見ても、そこには素性や源昇や在原友于などに対する少し見下したような皮肉が垣間見えるので、素性の歌が道真の歌を元にしたという道真の話を 「天神様の言う通り」と真に受けてよいかどうかのレベルになる。 |
( 2001/09/28 ) (改 2003/11/28 ) |
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