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       秋のうた 兼覧王  
298   
   竜田姫  たむくる神の  あればこそ  秋の木の葉の  ぬさと散るらめ
          
     
  • たむくる ・・・ 旅をする時に道中の安全を祈願する (手向く)
  • ぬさ ・・・ 道中の安全を祈願する時に使う、布や紙などと小さく切ったもの (幣)
  
竜田姫が手向けをする神がいるから、秋の木の葉が幣のように散るのだろう、という歌。 "竜田姫" は秋の女神で、それが旅立とうとしている時(=秋の終わり)に木の葉がこのように散るのは、彼女がそれを幣として(別の)神様に手向けているのだろうね、という趣向である。

  紅葉が散るのを 「幣を手向ける」と見る歌は、313番の躬恒の「道知らば たづねもゆかむ」の歌をはじめ次のような歌に見られるが、この歌ではそれを、「行く秋(=竜田姫)」が幣を手向ける(=旅の安全を願う)と言うならば、きっとその対象の神様がいるはず、という方向に振っているのが味となっている。

 
299   
   秋の山  紅葉をぬさと    たむくれば   住む我さへぞ  旅心地する
     
420   
   このたびは  ぬさ もとりあへず  たむけ山    紅葉 の錦  神のまにまに
     
421   
   たむけには   つづりの袖も  切るべきに  紅葉 にあける  神やかへさむ
     
        実際、「その対象の神様がいるはず」というのは 「木の葉を幣と手向ける」ということの前振りに過ぎず、それを「どんな神か」と詮索するのは野暮なことであるが、詮索したくなるのもまた一つの人の性であって、例えば「古今和歌集全評釈  補訂版 」 (1987 竹岡正夫 右文書院 ISBN 4-8421-9605-X) で紹介されている「毘沙門堂古今集注」では、後撰集巻七419の次の読人知らずの歌を引いて、「竜田姫ノタムケニハ海童(ワタツウミ)ノ神ニタテマツリ...」と見ている。

    わたつみの  神にたむくる  山姫の  幣をぞ人は  紅葉といひける

  「幣」という言葉を使った歌をまとめておくと次の通り。また、上記の421番の素性法師の歌は、「幣」という言葉を使わずに「紅葉−幣」ということを詠ったものである。 「大幣」については 706番の歌のページを参照。

 
     
298番    秋の木の葉の  ぬさと散るらめ  兼覧王
299番    秋の山  紅葉をぬさと たむくれば  紀貫之
300番    竜田川にぞ  ぬさはたむくる  清原深養父
313番    ぬさとたむけて  秋はいにけり  凡河内躬恒
379番    心をぬさ  くだく旅かな  良岑秀崇
420番    このたびは  ぬさもとりあへず たむけ山  菅原朝臣


 
( 2001/10/31 )   
(改 2003/11/23 )   
 
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