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       朱雀院の奈良におはしましたりける時にたむけ山にてよみける 菅原朝臣  
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   このたびは  ぬさもとりあへず  たむけ山  紅葉の錦  神のまにまに
          
     
  • ぬさ ・・・ 道中の安全を祈願する時に使う、布や紙などと小さく切ったもの (幣)
  • たむけ ・・・ 旅をする時に道中の安全を祈願すること (手向け)
  • まにまに ・・・ ままに・まかせて
  詞書の「朱雀院」とは宇多上皇のこと。 「奈良におはしましたりける時」とは、奈良にお出かけになった時ということで、賀茂真淵「古今和歌集打聴」で 「
奈良への御幸の事は物に見えねど昌泰元年に此上皇吉野の宮の瀧御幸の次手(ツイテ)に住吉へも御幸有しなれば奈良も道のゆくてにておはしませるなるべし」と推測されているように、一般的には898年十月の宮滝御幸の時のことか、とされている。 とすると、当時宇多上皇は32歳、菅原朝臣(=道真)は54歳。

  「たむけ山」の場所は不明だが、若草山の麓、東大寺二月堂近くの手向山八幡のあたりではなく、京都と奈良の境の平城山(=奈良山:ならやま)と言われる丘陵地帯ではないかとされている。

  歌の意味は、
この度は幣を用意することもできませんでしたが、手向山のあの紅葉の錦を神様の心のままに幣としてください、ということ。 「この度−この旅」が掛けられていて、「旅−幣−手向け」というつながりになっている。 "とりあへず" は、(幣を)取る(用意する)ことができなかったということで、「さかさまに 年もゆかなむ とりもあへず」という 896番の歌にも使われている。 「ぬさ」という言葉を使った歌の一覧は 298番の歌のページを、「あへず」という言葉を使った歌の一覧については 7番の歌のページを参照。

  また、この歌の "神" は手向山の道祖神(=道中の安全を司る神)を指しているのであろう。 「まにまに」という言葉を使った他の歌の一覧は 129番の歌のページを参照。

  898年の宮滝御幸については、「扶桑略記」の第二十三・醍醐天皇上の部分に、「宮滝御幸記」(作:菅原道真)からの抜粋と言われるものが残っている。
「新訂増補 國史大系 第12巻 扶桑略記・帝王編年記」(1965 黒板勝美 国史大系編修会 吉川弘文館) を元に、その様子をざっと見ると次の通り。

 
     
 10月21日 宇多上皇が鷹狩にお出かけになる。  それに付き従う者は

  ・是貞親王
  ・権大納言右大将  菅原朝臣
  ・参議勘解由長官  源昇朝臣
  ・四位右兵衛督     藤原清経朝臣
  ・左近衛中将        在原友于朝臣
  ・右近衛権中将     源善朝臣
  ・五位備前介        藤原朝臣 春仁
  ・左馬助              藤原朝臣 恒佐
  ・右衛門権佐        藤原朝臣 如道
  ・中宮大進           源朝臣 敏相

および六位の者8名、小童3名で総勢22名。その他、荷を運ぶ者たちなどが数十人。野山を日暮まで存分に楽しみ、宿をとる。
 10月22日 宮瀧を目指して出発。
 10月23日 早朝に宿を発ち進む。途中、法華寺に立ち寄り、礼拝し、綿を寄進する。上皇は寺の境内を廻り、堂舎が壊れているのを見る度にお嘆きになる。その後、旧都・平城京に入る。

路の脇に酒などの用意がされているのを見つけるが、その主が見当たらない。聞けば大安寺の安奚という僧侶が、菅原道真が来ると聞いて、もてなそうとしていたものだが、思いがけず上皇の一行を見て狼狽して隠れたものという。

さらに進む途中、上皇が馬上から、「素性法師が良因院にいるはずだ。使いをやって合流するように伝えよ。」とおっしゃる。それをうけて右近番長 山辺友雄が伝令に走る。やがて素性法師が一人馬に乗り現れ、上皇はお喜びになる。素性は張り切り、笠を取り鞭を掲げて、一行の前駆けとして進む。その様子を見て上皇は「禅師が前駆けであると、それに続くものは皆禅師のように見える。ここは仮に素性に俗名を付けて、良因朝臣ということにしよう。」とおっしゃる。
上皇馬上勅曰。素性法師応住良因院。馳使令参会於路次。即差右近番長山辺友雄請之。法師単騎参会路頭。上皇感歎。法師脱笠揚鞭。前駆而行。勅曰。相随者惣是白衣禅師。称須仮随俗法。仍号曰良因朝臣。取住所之名也。

日が暮れて、大和の国高市郡にある菅原朝臣の山荘に泊まる。

そこで上皇が「素性法師は歌の名手と聞く。先導して旅の心を慰める歌を詠むように。」とおっしゃったので、皆それぞれ和歌を作り披露する。藤原如道が歌を詠んだ後、一人部屋の片隅で指を折って文字数を数えている。素性がしばらくして言うには、「自分が作ったものはどうも著しく字余りになります。三文字減らしてもよろしいでしょうか。」しかし、上皇は「そんなことをしては皆が同じようなことをしはじめるので、ダメだ」とおっしゃる。
勅曰。良禅師者。和歌之名士也。宣為首唱以慰旅懐。即各進和歌。右衛門権佐如道献歌之後。独向隅。屈指計之。良久曰。臣作已乖格律。願減三字。有勅不許。諸人以為口実。
 10月24日 さらに進み、現光寺で礼拝し、寄進する。聖珠大法師が山の幸を振る舞い、香りのよい茶でもてなす。吉野郡の院に着き宿をとる。
 10月25日 ついに宮滝に到着。あたりを廻ってその素晴らしさを堪能する。その長さは二十三町で、その様はひどく険しいわけではないが、岩に当たる急流の色はまるで積もる雪が崩れたかのようである。「このような素晴らしい場所で空しく時を過ごすのはもったいない。この宮滝を題として歌を詠め。」と上皇がおっしゃるので、それぞれに歌を披露する。

さらに道に従い龍門寺に向かい、礼拝し、寄進する。その寺の様子はまるで俗世の外に出たかのようである。源昇朝臣と在原友于朝臣は手をとりあって昔仙人が住んだという古い庵に向かうが、そこで感動のあまり思わず涙し、ほとんど何も言わずに帰ってくる。上皇は落ち着いた様子であたりを御覧になり、滝の姿に感じいられたようで、歌を詠むように命じる。
路次向龍門寺。礼佛捨綿。松蘿水石如出塵外。昇朝臣。友于朝臣。両人執手。向古仙旧庵。不覚落涙。殆不言帰。上皇安坐佛門。痛感飛泉。勅令献歌。云々。

この日は山や川の様子が素晴らしかったものの、人馬共にしだいに疲れてきた。素性法師と菅原朝臣と源昇は三騎、縦に並んで進む。その時、素性法師が「今晩はどこの宿に泊まるのでしょう」と尋ねるので、菅原朝臣がそれに答えて

    不定前途何処宿
    白雲紅樹旅人家

と詩を詠みはじめるが、山の中は深く静かで誰もそれに句を続けてくれる人がいない。菅原朝臣は声高に「長谷雄はどこにおるか、長谷雄はどこにおるか」と再三、紀長谷雄の名を呼ぶが、長谷雄は鷹狩の前日の20日に右足を馬に踏み損なわれて怪我をし、京に引き返しているので、もちろんそこにはいない。
山中幽邃無人連句。菅原朝臣高声呼曰。長谷雄何処在。長谷雄何処在。再三不止。蓋求其友也。/(十月廿日の項に)長谷雄朝臣右脚為馬所踏損。不堪従行。申故障帰洛。

  夜に入ってかがり火をかざしながら進み、伴宗行の所に着く。
 10月26日 この日は疲れをとるために休む。ある者は軽く酒を飲み、またある者は閑談などして過ごす。内裏からの使いとして、平元方がいつの間にか到着し、旅先で何か不自由なことはないか、という伝言を伝える。
 10月27日 旅を続ける。昨日来た元方は帰らずに、そのまま一行に付き従う。
 10月28日 早朝、元方は上皇の返事を持って京へ戻る。午前十時ごろ、上皇が「摂津の住吉の浜に行こう」とおっしゃる。竜田山を経由して河内の国に入る。竜田山ではそれぞれ歌を詠み披露する。菅原朝臣が次のような詩を作る。

    満山紅葉破心機
    況遇浮雲足下飛
    寒樹不知何処去
    雨中衣錦故郷帰
 10月29日 住吉の浜を目指すが、ここで素性法師が本寺に帰らなければならなくなる。連れだった者たちは皆名残を惜しんで旅を先に進めることができない。そこで上皇が皆に別れを惜しむ歌を詠むようにと命じられる。やがて歌が終わると、素性法師は一組の衣服と小ぶりの馬を一頭頂く。素性は数杯酒を飲んだ後、戴いた衣をつけ、その馬に乗って山に向かって去る。皆、別れを惜しみ、群れ立ってそれを見送る。そして口々に「素性がいなくなってしまっては、これからは歌も興がのらなくなってしまうな」と言う。
欲向住吉浜。為惜素性法師帰本寺。留連未能発行。勅群臣令献惜別之歌。云々。歌終。施法師御服少衣一襲。細馬一匹。法師数盃之後。兼感恩賜。着御衣。騎御馬。向山直去。侍臣惜而群立目送。人々以為。今日以後。和歌興衰矣。
 10月30日 今日で十月も終わり。管絃隊が合流する。石の橋が下にあるわけでもなく、空飛ぶ帆がついているわけでもないけれど、潮にうまく乗って浪のうねりにまかせて非常に快調に進む。ここでも人々は和歌を披露する。やがて江北に着き、船を下りて馬に乗り、住吉社に詣でる。また人々和歌を詠む。
月盡也。管絃相随。雖無下磴飛帆之儲。頗得乗潮駕浪之趣。又各献和歌。云々。着於江北。下船騎馬。詣住吉社。和歌云々。
[閏]11月1日 正午ごろ、京の都に向かって発つ。午後四時ごろ、楓河の西、源善朝臣の家に到着。あたりが暗くなるまでしばらく待つ。一時間から一時間半後、朱雀院に帰着する。皆は酒や絹などを賜り、是貞親王、菅原朝臣、源昇朝臣は別途、御厩の駿馬を一頭頂く。夜になって付き従っていた者たちは、それぞれ別れて帰路についた。
[閏]十一月一日。午刻始向京都。申時到楓河西善朝臣小家。暫待昏景。両三刻後。帰幸朱雀院。賜陪従群臣酒饌并絹。別加給親王大納言参議御厩駿馬一匹。群臣入夜。各々分罷。


 
        最後の「[閏]11月1日」というのは、昌泰元年の閏月は10月のはずなので、「閏 10月1日」ということであろう。またこの後に「廿一日。右大将菅原朝臣記之。依多略之。」(21日。右大将菅原朝臣がこれを記す。内容が多すぎるのでこれを略した。)と書かれている。

  この "このたびは  ぬさもとりあへず" という歌が、この時のものであり、"たむけ山" が平城山だとすると、上記の日程から 10月22日(あるいは23日に奈良に入る前)のことだろうか。ただ、421番の素性の歌が、この歌の詞書をそのまま引き継ぐとすると、一行が素性と合流するのは平城山を過ぎて奈良に入った後なので、微妙なところである。

  紅葉を錦に譬えた歌はいくつかあるが、言葉として 「紅葉の錦」と出している歌としては、少しひねった言い方だが、次の貫之の歌が思い出される。

 
297   
   見る人も  なくて散りぬる  奥山の  紅葉は 夜の  錦なりけり  
     
        「錦」を詠った歌の一覧については 296番の歌のページを参照。

  上記にも見えるように漢詩を得意としていた菅原道真だが、この歌の他に古今和歌集に採られている和歌としては、次の宇多天皇の菊合の際のものがある。

 
272   
   秋風の  吹き上げに立てる  白菊は  花かあらぬか  浪のよするか
     
        また、藤原定家は八代集からそれぞれ十首づつ選んで編んだ「八代集秀逸」の中で、この道真の 「たむけ山」の歌をその一つとして選んでいる。その他の九首については 365番の歌のページを参照。

 
( 2001/09/26 )   
(改 2004/03/09 )   
 
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