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       かつらのみや 源恵  
463   
   秋くれば  月の桂の  実やはなる  光を花と  散らすばかりを
          
     
  • 月の桂 ・・・ 月の中にあると言われる桂の木 (言い伝え)
  「つきの
カツラノ ミヤはなる」という部分に題が詠み込まれているが、「かつらのみや(桂の宮)」と 「桂」の意味がだぶっている。 「かつらのみや(桂の宮)」は、宇多上皇の皇女である孚子内親王の住まいを指すとされ、その場所は西洞院六条、現在の京都府下京区天使突抜四丁目あたり。古今和歌集の配列でいうと、それまでの地名シリーズから急にスポットになったような感じがあるが、続く歌は「百和香」となっているので、そこへのつなぎとも考えられる。

  源恵(みなもとのほどこす)は 「源忠」とも書かれる。生年不詳、931年没。 908年従五位下、915年従五位上、926年正五位下。古今和歌集にはこの歌しか採られていない。

  歌の意味は、
秋になれば月の桂も実が生るのだろうか、光を花のように散らしているばかりに見えるが、ということ。前半は反語で 「実は生らないだろう」というニュアンスがあり、その理由を後半で「なぜならいつまでも光を花のように散らしているから」と説明している。実質的には月の光の美しさを誉めている歌と見てよいだろう。 「やは」を使った歌の一覧については 106番の歌のページを参照。 「月の桂と月光」という歌としては、秋歌上に次のような忠岑の歌もある。

 
194   
   久方の  月の桂 も   秋 はなほ  もみぢすればや  照りまさるらむ  
     
        恵(ほどこす)の歌が 「光を花と  散らすばかりを」という抑えた口調であるのに対し、忠岑の歌は "久方の" と飾って、素直に" もみぢ" に結び付けているあたり、あたかも二人の歌人が、山をはさんで同じ月を見ているような趣きがある。 「〜ばかりを」という表現を使った歌の一覧は 444番の歌のページを参照。

  また、伊勢の歌に、「かつら」という地名から月の桂をイメージした次のような歌もある。

 
968   
   久方の   中におひたる  里なれば  光をのみぞ  たのむべらなる
     
        恵(ほどこす)や忠岑の歌とは趣向が異なるが、"久方の" という枕詞を宙に浮かせて、「月」を言わずに意味を通すという方法をとっているのが目を引く。

 
( 2001/05/03 )   
(改 2004/03/10 )   
 
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