題しらず | 凡河内躬恒 | |||
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[わかること]
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「にほ鳥」と 「つれもなく」のつながりは何か | |||
「にほ鳥」は古今和歌集の他の歌には出てこない。今、万葉集の歌でそのイメージを見てみると、 [巻三]443 ...にほへる君が にほ鳥の なづさひ来むと 立ちて居て... [巻四]725 にほ鳥の 潜く池水 心あらば 君に我が恋 ふる心示さね [巻五]794 ...にほ鳥の ふたり並び居 語らひし 心背きて 家離りいます [巻十一]2492 思ひにし あまりにしかば にほ鳥の なづさひ来しを 人見けむかも [巻十四]3386 にほ鳥の 葛飾早稲を にへすとも その愛しきを 外に立てめやも [巻十五]3627 ...にほ鳥の なづさひ行けば 家島は 雲居に見えぬ... [巻十八]4106 ...にほ鳥の ふたり並び居 なごの海の 奥を深めて さどはせる... [巻二十]4458 にほ鳥の 息長川は 絶えぬとも 君に語らむ 言尽きめやも ということで、なづさふ(=水に浮かぶ・親しむ)/かづく(=潜る)/ふたり並び居(ゐ)、という感じである。いずれもこの歌の "つれもなく" に直接つながるものはない。 「つれなし」(=無関心である様子)の 「つれ」に 「連れ」を掛けて 「ふたり並び居(ゐ)」のニュアンスを持ち込んでいるかもしれない、という程度の 「薄い掛かり方」としか見ることができない。 つまり、「にほ鳥−つれなし」という部分には意味的には強い関係が感じられない。しかし歌の流れ的にはどう見ても 「冬の池にすむにほ鳥」は 「つれもなく」に掛かっているように見える。そこで考えられることは、冬の池に「住んでいる」「にほ鳥」は、その姿だけを見ると深く潜るもののようには見えない、その様子を 「つれなし」と言ったのではないか、ということである。これは本居宣長が「古今和歌集遠鏡」の中で「つれもなくは。氷の下をかよふ。故に。上へはさも見えぬよしなり。」と述べていることと、氷の下云々を除けば同じである。 また、もう一つの考えとして、 冬の池(にすむ) − つれもなく にほ鳥 − そこにかよふ と「つれもなく」は「にほ鳥」よりも「冬の池にすむ」の方からつながっていて、「冷たい−冬の池/冷淡な−つれなし」ということも考えられなくはない。 |
「つれもなく」は「つれもなく−かよふ」なのか「つれもなく−知らすな」なのか | |||
しかし、「つれもなく」が冬の池から 「冷淡な」ことを言っているとすると、冷淡な態度で恋人のもとに通う、というのは不自然である。一方、恋人のもとに 「そ知らぬ素振りで」通う、というのは他人には普通に自分の家に 「住んでいる」ようにみせて、密かに外出して相手の家にサッと入るという感じがあってイメージしやすい。 また、「冷淡な」ということにこだわれば、「つれもなく」は 「そこにかよふ」を飛び越して 「人に知らすな」に掛かるのではないかと見ることもできなくはないが、言葉のつなぎとしてはやはり不自然であると思われる。 |
「人に知らすな」とは誰に言っているのか | |||
あと問題なのは、最後の "人に知らすな" が誰に言っているか、ということだが、その可能性としてあるのは、
一方、「にほ鳥」を序詞として見ず、それに語りかける見立てで 「誰にも知られたくない」ということを言っているとも考えられなくもない。恋歌として動植物が使われる場合、「〜のように」という譬えや序詞として使われることが多いものの、同じ恋歌三の読人知らずの 634番の「あふ坂の ゆふつけ鳥は 鳴かずもあらなむ」という歌のようなものもあるからである。しかも 「にほ鳥」も 「鳥」なので 「鳴いて知らす」ということも筋としては通る。ただし、問題は「すむにほ鳥は」ではなく、"すむにほ鳥の" となっている点である。よってやはり 「にほ鳥」は 「つれもなく そこにかよふ」の序詞であると考えられる。 「つれなし」ということを詠った歌の一覧は 486番の歌のページを参照。 「池の底」ということを詠った歌としては、秋歌下に次のような友則の歌もある。 |
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( 2001/12/04 ) (改 2004/02/18 ) |
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