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       題しらず 紀乳母  
1028   
   富士の嶺の  ならぬ思ひに  もえばもえ  神だにけたぬ  むなし煙を
          
     
  • けたぬ ・・・ 消さない (消つ)
  "思ひ" の「ひ」に「火」を掛けて、
富士の山のどうしようもない火に燃えるなら燃えなさい、神さえ消さない空しい煙を上げて、という歌である。 「平中物語」十一段ではこの歌は、次の歌の返しとして使われている。

    我のみや  燃えてかへらむ  世とともに  思ひもならぬ  富士の嶺のごと

  冷たくされて自分だけが思いを燃やして帰るのは、まるでずっと昔から思うようにならないとされている富士の山の火のようだ、という歌で、それに対して 「思ひもならぬ」を "ならぬ思ひ" として返して、「勝手にしなさい」とあしらっている感じである。 "神だにけたぬ" の 「だに」という言葉を使った歌の一覧は 48番の歌のページを参照。

  ただ、紀乳母と平貞文という組み合わせは、陽成天皇の乳母であった紀乳母の方がかなり年上のような感じがする。紀乳母の生年は不明であるが、陽成天皇の誕生は 868年であり、紀乳母はその頃には子をもうけていたのであろう。一方平貞文は 923年に五十二歳で没したとされるので、その生年は871年ということになる。

  もちろん、この歌は 「平中物語」にある歌や、平貞文に関連付けて考える必要があるわけではない。古今和歌集の中で見れば、この歌に対するものは、恋歌四にある 680番の藤原忠行の「富士の嶺の めづらしげなく もゆる我が恋」といったところか。

  また、誹諧歌の配置の順からすれば、"富士の嶺" に燃える火から上る煙を「神」まで持ち出して 
"むなし" というこの歌は、一つ前の 1027番の読人知らずの山田の案山子を詠んだ「我をほしてふ
 うれはしきこと」という歌の雰囲気を引き継いでいると見ることができる。

 
( 2001/10/19 )   
(改 2004/03/07 )   
 
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