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       題しらず 読人知らず  
534   
   人知れぬ  思ひをつねに  するがなる  富士の山こそ  我が身なりけれ
          
        「駿河」に 「する」を掛けて、人知れぬ思いを常にする、我が身はまさしくあの富士の山のようである、という歌。何故富士山かと言えば、次の藤原忠行の歌にあるように 「燃えるもの」というイメージがあるからである。

 
680   
   君と言へば  見まれ見ずまれ  富士の嶺の   めづらしげなく  もゆる我が恋  
     
        次の紀乳母(めのと)の誹諧歌では 「思ひ」と 「煙」について詠っている。

 
1028   
   富士の嶺の    ならぬ思ひに   もえばもえ  神だにけたぬ  むなし煙を
     
        また、この 「富士の嶺」の譬えは次の読人知らずの長歌でも使われている。

 
1001   
    あふことの  まれなる色に  思ひそめ  我が身は常に  天雲の  晴るる時なく   富士の嶺の 
 
 もえつつとはに   思へども  あふことかたし  何しかも  人をうらみむ  わたつみの  沖を深めて
  思ひてし  思ひは今は  いたづらに  なりぬべらなり  ゆく水の  絶ゆる時なく  かくなわに
  思ひ乱れて  降る雪の  けなばけぬべく  思へども  えぶの身なれば  なほやまず  思ひは深し
  あしひきの  山下水の  木隠れて  たぎつ心を  誰にかも  あひかたらはむ  色にいでば
  人知りぬべみ  墨染めの  夕べになれば  ひとりゐて  あはれあはれと  なげきあまり
  せむすべなみに  庭にいでて  立ちやすらへば  白妙の  衣の袖に  置く露の  けなばけぬべく
  思へども  なほなげかれぬ  春霞  よそにも人に  あはむと思へば
     
        これらを見ると富士山は「 "つねに"/めづらしげなく/神だにけたぬ(=神さえ消さぬ)/とはに(=永遠に)」燃える火を持った山としてとらえられおり、その永続性が焦点となっている。

  この「駿河」の歌の "人知れぬ  思ひ" は、紀乳母の歌のように「煙」を出していては、他にあまねく知られてしまいそうだが、たとえそうでもその中で絶えず燃えている様子までは知る人はいない、という「勢い」として見ておきたい。実際に噴煙が上がっていなかったかどうかは、この歌だけではわからない。 「人知れぬ恋の思ひ」を詠った歌の一覧は 496番の歌のページを参照。

  ちなみに富士山は 864年七月に噴火したことが 「三代実録」に記されており、466番の歌の都良香(みやこのよしか)(834-879)には「富士山記」という記録書があり、紀乳母は陽成天皇(868年生まれ)の乳母であり、藤原忠行は生年不詳、没年906年であり、仮名序では 「富士の煙によそへて人をこひ」/「今は富士の山も煙たたずなり」と書かれている。

  「駿河」を使った他の歌としては、恋歌一に次の読人知らずの歌がある。

 
489   
   駿河なる   田子の浦浪  立たぬ日は  あれども君を  恋ひぬ日ぞなき
     

( 2001/12/11 )   
(改 2004/03/14 )   
 
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