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花の咲く木でももうこれからは植えるのはよそう、春になれば、うつろう花を見て人の心が同じように変わってしまうから、という歌。単純なようだが、細かく見るとわかりづらい歌である。
"花の木も" の 「も」は何故 「も」なのか。意味としては 「花が咲く木は見て楽しいものだけれども、そんな花の木でも」ということで柔らかい強調になっている。「は」を使うと「花の木は 今は」となって、繰り返しが硬い印象を与えるため避けたのかもしれない。
次に "春たてば" であるが、これは文字通りにとれば、「立春になれば」ということで、少し広くとれば 「春の季節がはじまれば」ということなのだが、そこから花が咲くことを飛び越して、一気に色が 「うつろふ」ことに結び付けている点がわかりづらい。春になれば花が咲く→花は 「うつろふ」ものである→だから春になれば人の心が 「うつろふ」ことに 「ならふ」という論理になる。
最後に終わりにある 「けり」だが、「けり」は詠嘆の助動詞で、34番の「宿近く 梅の花植ゑじ ... 待つ人の香に あやまたれけり」と同じ使い方とすれば、「うつろふ色に人がならふ」ということを今気が付いた、という感じであろう。ではそれは、実際に相手の心変わりを見て気が付いたのか、それともそういうことがあるという可能性に気がついたのか。 "人ならひけり" という言葉の強さからみて、前者のような気がする。とすると、 "春たてば" というのは、未来への仮定というよりも、もう過ぎた時点のことを振り返っていることになる。つまり、
- この春、相手の心変わりがあった
- 今気付いてみると、それは花の 「うつろひ」にならったものではないかと思う(責任転嫁)
- 春になれば、咲くときれいで楽しめると思って植えたのに
- こんな思いをするなら、もうこれからは花の咲く木なんて植えるものか
ということを逆順で言っているのである。素性が女性の立場に立って詠んだ歌である。
この歌の 「うつろふ」は直後に 「色」とあるので花の色が「褪せる」ことを人の心変わりに合わせていることがわかるが、 45番の歌のページの 「うつろふ」を使った歌の一覧のように、「うつろふ」はまた、「散る」という意味で使われることもある。そこで、49番の貫之の「散ると言ふことは ならはざらなむ」という歌と並べてみると、人が花に 「ならふ」と言っている点にこの歌との共通点があるように思え、また、恋歌五にある次の同じ素性の歌にも、この歌との近さが感じられる。
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