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       題しらず 読人知らず  
283   
   竜田川  もみぢ乱れて  流るめり  渡らば錦  中や絶えなむ
          
        竜田川に紅葉が入り乱れて流れているようだ、そこを渡れば、その錦の帯が中断してしまうだろうか、という歌。 「竜田川」の歌の一覧については 302番の歌のページを参照。 "流るめり" の 「めり」は推量・婉曲の助動詞で「〜のようだ」ということ。この 「めり」を使った歌の一覧については 
1015番の歌のページを参照。

  "中や絶えなむ" は 「絶え+な+む」で「な」は完了の助動詞「ぬ」の未然形、「む」は推量の助動詞「む」の連体形である。この歌は左注に「このうたは、ある人、奈良の帝の御うたなりとなむ申す」とあり、それは仮名序の次の部分と符合する。

 
     
いにしへよりかく伝はるうちにも奈良の御時よりぞ広まりにける。かの御代や歌の心を知ろしめしたりけむ。かの御時に、正三位柿本人麿なむ歌の聖なりける。これは君も人も身をあはせたりといふなるべし。秋の夕べ竜田川に流るるもみぢをば、帝の御目に錦と見たまひ、春のあした吉野の山のさくらは人麿が心には雲かとのみなむおぼえける。


 
        この仮名序の記述に従えば、竜田川には 「秋の夕べ」という修飾が付いており、これは単に 「春のあした」との対とも考えられるが、「めり、けむ」といった婉曲な表現の要因として光量の減少の可能性を言っているとも考えられる。あるいは単に 293番の歌などのように屏風絵を題にして詠まれたものかもしれない。

  ちなみに、この仮名序の部分で竜田川の歌とペアで語られている 「吉野の山−桜−雲」を詠った歌は、人麻呂に限らず万葉集・古今和歌集の中には存在しない。桜を雲と見間違えるという内容で一番近いのは、次の貫之の歌である。

 
59   
   桜花   さきにけらしな  あしひきの  山のかひより  見ゆる 白雲  
     
        この歌の詞書には「歌たてまつれと仰せられし時によみてたてまつれる」とあって、どこにも 「吉野の山」とは書かれていないが、天皇の求めに応じて献上したというかたちは、仮名序での 「奈良の帝−人麻呂」の関係を彷彿させる。

  狭い視野で見れば、作者が紀貫之とされる仮名序に人麻呂作として貫之の歌がポイントされている(ように見える)ことは、次のような憶測を生む可能性を持っている。
  • 貫之が自分の歌を人麻呂の作と間違えるはずはないので仮名序は貫之の作ではない
  • 貫之がわざと自分を人麻呂に模してすべりこませた悪戯である
  • 59番の歌は伝・人麻呂作の歌のパクリであることを仮名序で露呈している
  もちろんこれは仮名序での「春のあした吉野の山のさくらは人麿が心には雲かとのみなむおぼえける」という部分が 59番の歌を指しているという前提での話だが、色々考えてみるのも面白いかもしれない。

  さて、この竜田川の歌では、紅葉の錦が 「中絶」するとしているが、次の忠岑の歌では紅葉の錦を 「たちきる」としている。その 「きる」が 「着る」であるか「切る」であるかは微妙だが、紅葉の真ん中に入ってゆくという感じはこの歌と似たものがある。

 
296   
   神なびの  みむろの山を  秋ゆけば  錦たちきる   心地こそすれ
     
        「錦」を詠った歌の一覧については 296番の歌のページを参照。

 
( 2001/08/29 )   
(改 2004/03/07 )   
 
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