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竜田川に紅葉が入り乱れて流れているようだ、そこを渡れば、その錦の帯が中断してしまうだろうか、という歌。 「竜田川」の歌の一覧については 302番の歌のページを参照。 "流るめり" の 「めり」は推量・婉曲の助動詞で「〜のようだ」ということ。この 「めり」を使った歌の一覧については 1015番の歌のページを参照。
"中や絶えなむ" は 「絶え+な+む」で「な」は完了の助動詞「ぬ」の未然形、「む」は推量の助動詞「む」の連体形である。この歌は左注に「このうたは、ある人、奈良の帝の御うたなりとなむ申す」とあり、それは仮名序の次の部分と符合する。
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いにしへよりかく伝はるうちにも奈良の御時よりぞ広まりにける。かの御代や歌の心を知ろしめしたりけむ。かの御時に、正三位柿本人麿なむ歌の聖なりける。これは君も人も身をあはせたりといふなるべし。秋の夕べ竜田川に流るるもみぢをば、帝の御目に錦と見たまひ、春のあした吉野の山のさくらは人麿が心には雲かとのみなむおぼえける。 |
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この仮名序の記述に従えば、竜田川には 「秋の夕べ」という修飾が付いており、これは単に 「春のあした」との対とも考えられるが、「めり、けむ」といった婉曲な表現の要因として光量の減少の可能性を言っているとも考えられる。あるいは単に 293番の歌などのように屏風絵を題にして詠まれたものかもしれない。
ちなみに、この仮名序の部分で竜田川の歌とペアで語られている 「吉野の山−桜−雲」を詠った歌は、人麻呂に限らず万葉集・古今和歌集の中には存在しない。桜を雲と見間違えるという内容で一番近いのは、次の貫之の歌である。
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