二条のきさきの春宮の御息所と申しける時に、御屏風に竜田川にもみぢ流れたるかたをかけりけるを題にてよめる | 在原業平 | |||
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「例解 古語辞典 第三版」 (1993 三省堂 ISBN4-385-13327-1)の「付録・百人一首」では「なお、古代中国の蜀の地では、錦江の流れにさらしてつくる錦が、精巧な品として名高かったが、くくり染めという着想は、その蜀江の錦を意識してのものだろう。とすれば、上の句には、あの有名な蜀江の錦でも、これほどではあるまい、という含みもある。」と述べられている(錦江=蜀江)。 また、"水くくる" の解釈としては、もう一つ 「潜る(くくる)」という説が有名である。これについて賀茂真淵「古今和歌集打聴」では「後の説共(ども)は河に散しきたる紅葉の下を水のくゞりて流るゝを紅に水のくゞるとよめりといへれど紅は体なき物にてそれをくゞるとはいひがたし或家の伝に泳(クヾル)にあらす絞(クヽル)也と云ぞよき絞(クヽル)とは絹を紅のくゝり染にせしそれに見なせる也」という理由で「括り染め」の説を支持している。 「打聴」の言う 「後の説ども」というのは「顕註密勘」などを含めてのことだが、例えば「打聴」より少し前に書かれた契沖「古今余材抄」を見てみると「是(これ)は立田川に紅葉のみちてなかるゝさまひとへにから錦をなかせることくにして錦の中より水のくゝると見ゆるを奇異のことくみゆるゆゑ神の世まてをたくらへていふなり...川には錦あらふといふことの有故(あるゆゑ)紅葉のなかるゝをかくいふ也...くゝるは日本紀に泳の字をよみ万葉には潜の字をかけり」としている。 「万葉には潜の字をかけり」という部分は置いておいて、契沖の言いたいことは 「その隙間を水がくぐって出てくるほど紅葉に満ちた竜田川の流れ」ということだが、真淵に言わせればこれも 「紅葉の下を水がくぐる」と同様というわけであろう。 また、万葉集・巻十一2796の歌には次のように 「水くくる」という言葉が出てくるが、これは「玉」あるいは「磯貝」が主語であるため、今の "唐紅に 水くくるとは" とは合わないような気がする。 水くくる 玉に交じれる 磯貝の 片恋のみに 年は経につつ こうして 「くくる=括り染め」という解釈が一般的になり、「唐紅に 水くくる」は 「唐紅に水を染める」とほとんど同じ意味とされるが、本当にそれでよいのか? という疑問は残る。「そんな解釈は確かに、神世も聞かず、だなあ」という業平の声が聞こえるようでもある。 さて、この歌の詞書は一つ前の次の素性の歌から引き継いだものだが、「竜田川にもみぢ流れたるかた」の歌として、この業平の歌では 「紅葉」という言葉を使わず、素性の歌では 「竜田川」という言葉を出していないという点が面白い。 |
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「紅」を詠った歌の一覧は 723番の歌のページを参照。 また、業平の歌として「二条のきさきのまだ東宮の御息所と申しける時に、大原野にまうでたまひける日よめる」という詞書を持つ歌に次のものがある。 |
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二条の后(藤原高子)が 「春宮(東宮)の御息所」と呼ばれていたのは、その子・貞明親王(後の陽成天皇)が皇太子となった時から天皇即位までの間、つまり869年〜876年の間であり、業平は825年生れであるので、当時四十五歳〜五十二歳ということになる。 二つの歌とも 「神世」(神代)という言葉が出てくるが、そこには、手放しで褒め称えるわけでなく、悪い感情を持つわけでもなく、ただある種の気持ちを持って、二条の后を透過して、その子である皇太子と 「天皇」というものをじっと見ているような視線を感じる。 「ちはやぶる」という枕詞を使った歌の一覧については 254番の歌のページを、 「竜田川」の歌の一覧については 302番の歌のページを参照。 |
( 2001/08/29 ) (改 2004/03/06 ) |
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