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       二条のきさきのまだ東宮の御息所と申しける時に、大原野にまうでたまひける日よめる 在原業平  
871   
   大原や  をしほの山も  今日こそは  神世のことも  思ひいづらめ
          
        詞書の意味は 「二条の后がまだ東宮の御息所と呼ばれていた頃に大原野に詣でた時に詠んだ」歌ということ。

  二条の后は藤原高子で、東宮の御息所と呼ばれていた時期は、869年から 876年の間。二十八歳から三十五歳までの時期である。当時業平は四十五歳から五十一歳。 「大原野」は、現在の京都府京都市西京区大原野南春日町にある大原野神社を指し、大原野神社は春日大社から分霊された藤原氏の氏社。小塩山はその西にある。

  歌の意味は、
大原の小塩山も今日こそは、神世のことも思い出すであろう、ということ。 「思ひ出づ」という言葉を使った歌の一覧は、その 148番の歌のページを参照。

  「小塩山が東宮の御息所の参詣を喜んでいるだろう」と言うニュアンスはわかるが、 "神世のこと" とは何を指しているのかよくわからない。シンプルに考えれば華やいだ行列を見て神世の繁栄時を思い出しているだろうということだろう。

  小塩山といえば淳和天皇(786-840)陵があり、藤原氏が大原野神社に神を祀ったのは、長岡京遷都の頃(784)と言われているので、当時のことを言っているようにも思えるが、オーバーな表現としても、それを 「神世」とは呼ぶのは、294番の同じ業平の 「竜田川」の歌で使われている 「神世」の感じからしても少しおかしい。ということは、神社に祀られている神に間接的に呼びかけたものだろうか。元が春日大社である大原野神社に祀られている神は
  • 武甕槌命 (たけみかづちのみこと)
  • 経津主命 (ふつぬしのみこと)
  • 天児屋根命 (あめのこやねのみこと)
  • 比売大神 (ひめおおかみ)
の四神で、このうち藤原高子と関係が深い神としては藤原氏の祖神の天児屋根命であろう。
「古今和歌集全評釈(下)」 (1998 片桐洋一  講談社 ISBN4-06-208753-7) では、天児屋根命が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に付き従っての高千穂への降臨したことを高子が皇室に入ったことになぞらえている、という解釈が示されている。天児屋根命は天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩屋に隠れた時に祝詞を奏した神としても有名である。

  また、比売大神はその実体がよくわからないが后神であり、その点藤原高子の参詣から連想されることも考えられるが、比売大神は天児屋根命の妻という説もあるので、東宮の御息所である藤原高子とは直接は結びつかず、その線で言えば、天児屋根命と比売大神が小塩山に立って、天皇となるべき子を生んだ、子孫である藤原氏の娘を見守り、祝福しているというイメージがあるのかもしれない。伊勢物語の第七十六段では業平が高子との関係について言ったことになっているが、それではあまりにもスケールが小さすぎるような気がする。

  "大原や" という詠い出しはどことなく昔調だが、古今和歌集の中で他に「地名+や」というはじまり方をするものには、次の貫之の歌や二つの 「かへしものの歌」がある。貫之の歌は枕詞として使っているが、大ぶりな感じが出ていることは同じであり、またそれを狙ったものであろう。 「や」は詠嘆の意味を表す間投助詞(あるいは副助詞)である。

 
697   
   敷島や   大和にはあらぬ  唐衣  ころもへずして  あふよしもがな
     
1083   
   みまさかや   久米のさら山  さらさらに  我が名は立てじ  万代までに
     
1086   
   近江のや   鏡の山を  立てたれば  かねてぞ見ゆる  君が千歳は
     
        「地名+や」のパターンを持つ歌の一覧は次の通り。

 
     
697番    敷島や  大和にはあらぬ 唐衣  紀貫之
871番    大原や  をしほの山も 今日こそは  在原業平
878番    更級や  をばすて山に 照る月を見て  読人知らず
981番    菅原や  伏見の里の 荒れまくも惜し  読人知らず
1083番    みまさかや  久米のさら山 さらさらに  読人知らず
1086番    近江  鏡の山を 立てたれば  読人知らず


 
( 2001/10/18 )   
(改 2004/02/09 )   
 
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