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■ 本居宣長「古今和歌集遠鏡」
■ 賀茂真淵「古今和歌集打聴」
真淵「打聴」の場合、一旦、契沖の説を出しながら「猶思ふに」と考え直している。
パターンAでは「来るべき時が過ぎたのだろうかと待ちわびていると、声がして人(の心)を騒がせる」ということで、204番の「日は暮れぬと 思ふは山の かげにぞありける」という歌の筋と似たところがある。ただ、「来るべき時が過ぎたのだろうかと待ちわびる」というのは、意味的に少しおかしい。主語の入れ替えも複雑すぎるような気がする。どちらかと言えば、パターンBの方が自然なのではないかと思われる。
その他、「時」という言葉からは 「夏」ということも思いつくが、「夏」に対して 「来るべき時が過ぎて待ちわびる」とは、「五月になっても実質的な夏がこない」と見ても、やはり無理がありそうである。
最終的には、一つ前の同じ敏行の 422番の歌に合わせると、「相手が来るはずの時が過ぎたのか、待ちわびて泣く声が他人の心を騒がせる」とホトトギス抜きに、一般的な感じでとらえておきたい。 「とよむ」という言葉は、もともと 「響かせる」という意味で、現在も使われている 「どよめく」は同じ系列の言葉である。古今和歌集の中では他に次の読人知らずの恋歌で使われている。
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