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       ほととぎす 藤原敏行  
423   
   くべきほど  時すぎぬれや  待ちわびて  鳴くなる声の  人をとよむる
          
     
  • とよむる ・・・ 騒がせる
  「くべき
ホド トキスぎぬれや」にホトトギスを含む物名の歌であるが、歌の意味はわかりづらい。

 
     
[    ]の来るべき時が過ぎたためか
[    ]が[    ]を待ちわびて
ホトトギスが鳴く声が人(の心)を騒がせる


 
        これのカッコの中を埋めよ、という問題のようである。正解というものはないが、いくつかの解釈を見てみると大きく二つに分かれるようである。

パターンA

 
     
ホトトギス] の来るべき時が過ぎたためか
] が [ホトトギス] を待ちわびて
ホトトギスが鳴いている声が人(の心)を騒がせる


 
        ■ 「古今和歌集全評釈(中)」 (1998 片桐洋一  講談社 ISBN4-06-205980-0)
  ■ 
「古今和歌集全評釈  補訂版 」 (1987 竹岡正夫 右文書院 ISBN 4-8421-9605-X)
  ■ 契沖「古今余材抄」
  これら三つは細かな違いはあるものの、「待ちわびる」のは人、「鳴くなる声」はホトトギス、と分けている点で共通している。

パターンB

 
     
ホトトギスの妻] の来るべき時が過ぎたためか
ホトトギス] が [その妻] を待ちわびて
ホトトギスが鳴いている声が人(の心)を騒がせる


 
        ■ 本居宣長「古今和歌集遠鏡」
  ■ 賀茂真淵「古今和歌集打聴」
  真淵「打聴」の場合、一旦、契沖の説を出しながら「
猶思ふに」と考え直している。

  パターンAでは「来るべき時が過ぎたのだろうかと待ちわびていると、声がして人(の心)を騒がせる」ということで、204番の「日は暮れぬと 思ふは山の かげにぞありける」という歌の筋と似たところがある。ただ、「来るべき時が過ぎたのだろうかと待ちわびる」というのは、意味的に少しおかしい。主語の入れ替えも複雑すぎるような気がする。どちらかと言えば、パターンBの方が自然なのではないかと思われる。

  その他、「時」という言葉からは 「夏」ということも思いつくが、「夏」に対して 「来るべき時が過ぎて待ちわびる」とは、「五月になっても実質的な夏がこない」と見ても、やはり無理がありそうである。

  最終的には、一つ前の同じ敏行の 422番の歌に合わせると、「
相手が来るはずの時が過ぎたのか、待ちわびて泣く声が他人の心を騒がせる」とホトトギス抜きに、一般的な感じでとらえておきたい。 「とよむ」という言葉は、もともと 「響かせる」という意味で、現在も使われている 「どよめく」は同じ系列の言葉である。古今和歌集の中では他に次の読人知らずの恋歌で使われている。

 
582   
   秋なれば  山 とよむ まで  鳴く鹿に  我おとらめや  ひとり寝る夜は
     
        また、次の読人知らずの歌でも、ホトトギスの 「鳴くなる声」が詠われている。 「鳴くなる」という言葉を使った歌の一覧は 1071番の歌のページを参照。

 
140   
   いつの間に  五月来ぬらむ  あしひきの  山郭公    今ぞ鳴くなる  
     
        「動詞+わぶ」というかたちが使われている歌の一覧は 152番の歌のページを参照。

 
( 2001/08/20 )   
(改 2004/02/20 )   
 
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