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前半の 「我が身=海松布なき浦」ということがわかりづらく、次のような可能性が考えられる。
(A) 相手に会う気がさらさらない (B) 会いたいけれど自分の意志では会うことが出来ない (C) 相手とは別の男に会いたいけれど会えない
このうち(C)は少し考えすぎで、歌がいびつになってしまうので外し、(B)はどうも無理やりという感じで "足たゆくくる" という言葉のニュアンスと合わないような気がする。消去法で(A)が残るといった感じか。
ちなみに、本居宣長は「古今和歌集遠鏡」の中で 「見るめなき浦とは逢かたき身をいふ意也。浦はたゞ見るめによれる詞のみ也。されば我身をうらむとも。うしともいひかけたるにはあらず。」と述べていて、「アノ御人ハワシガ身ヲ ドウモ逢レヌ身ヂヤトハ 知ラシヤラヌカシテ」と訳している。上記で言えば(B)の解釈である。さらにその中で「浦」はただ縁語であり、「恨む」の 「うら」も、「憂し」の 「憂(う)」も掛けられてはいないと言っているが、"我が身を浦と 知らねばや" という言い方からすると、やはりそこにはどちらかが掛けられているように見える。 「身をう〜」とかたちで「身を憂」と言っていると思われる歌の一覧については 806番の歌のページを参照。
小町の歌で 「恨み」に 「浦」を掛けているものとしては次の歌がある。
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