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よりによって、秋という季節は人と死別するべき時ではないよ、この世にあるままで会うだけでも恋しいのに、という歌。 "秋やは人の 別るべき" とは、秋は人と別れるべき季節だろうか、いやそうではない、という反語である。 「やは」を使った歌の一覧については 106番の歌のページを参照。この歌の 「秋」は特に何かの譬えになっているわけではないので、この歌から、友則が亡くなったのは秋であったと見てよいだろう。
言葉としては言い放ちの "時しもあれ" という先頭の句が目立つ歌である。 "時しもあれ" は、「時しも(こそ)あれ」ということで、「しも」は強調の副助詞。 「あれ」は 「あり」の已然形。その 「あれ」が "あるを見るだに" の 「ある」と重なるところが、即興的な臨場感を出している。 「だに」という言葉を使った歌の一覧は 48番の歌のページを参照。
この前の 838番の貫之の歌とこの忠岑の歌が続けば、バランス的にはもう一人の古今和歌集の撰者である躬恒の歌が欲しいところである。しかし 「躬恒集」にもそれらしい歌は見当たらない。その代わり、この歌に続く次の歌は、「母が思ひにてよめる」という詞書の躬恒の歌となっている。
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