思ひに侍りける年の秋、山寺へまかりける道にてよめる | 紀貫之 | |||
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(B) は二句目までを序詞として切り離した場合に、最も可能性がありそうだが、「一時的に思った」ということでは何のことかよくわからない。 「自分のものではない仮のものとして思っていた」とすると哀傷歌の意図に沿うが、それでは (C)と同じである。 (C) は 「浮き世=かりそめ」では (A)と変らず、「憂き世が自分のものではない仮のものと思っていた」と見れば哀傷歌らしいが、 "思ひぬるかな" いう、その場で 「思った」という感じと合わないような気がする。どちらにせよこの (C)の場合は 「かりそめと」であった方がよさそうである。 以上から考えて、かたちとしては (B)がよさそうであり、ここでは 「朝露が置く山田」と 「遅い稲」から、(恐らく年老いて不遇な環境の中で亡くなった)故人のことを偲び、ああ辛い世の中だと「かりそめに」思われた、しかしそれもやはり亡くなった今から思えば「仮」のことだったのだな、というようなニュアンスでとっておきたい。 |
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「かりそめ」という言葉は、862番の在原滋春の歌にあり、同じ貫之の次の歌の中では、やはり 「刈り初め」と掛けられて使われている。 |
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これらをまとめておくと次の通り。 |
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( 2001/07/10 ) (改 2004/02/03 ) |
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