Top  > 古今和歌集の部屋  > 巻十六

       かひの国にあひ知りて侍りける人とぶらはむとてまかりけるを、道なかにてにはかにやまひをして、いまいまとなりにければ、よみて、京にもてまかりて母に見せよ、といひて、人につけ侍りけるうた 在原滋春  
862   
   かりそめの  行きかひぢとぞ  思ひこし  今はかぎりの  門出なりけり
          
     
  • かりそめの ・・・ 一時的な
  • 行きかひぢ ・・・ 行きかう路 
  詞書の意味は 「甲斐の国に、親しい人の様子を見に訪ねようとして向かったのだが、その道中、急に病にかかり、いよいよ命が危なくなったので、歌を詠んで、京に持っていって母に見せよ、と人に託したその歌」ということ。

  歌の意味は、
ちょっと行って帰ってくるだけの道と思ってやって来ましたが、これが最後の門出となってしまいました、ということ。 "行きかひぢ" に「甲斐路」を掛けていて、物名の歌ということもできる。物名の部に三首( 424番 / 451番 / 465番 )が採られている滋春らしい歌ではあるが、状況からして普通に考えれば、ただのバカ者である。在原滋春は在原業平の次男で、この歌のひとつ前には父・業平の歌が置かれている。

 
861   
   つひにゆく  道 とはかねて  聞ききしかど  昨日今日とは  思はざりしを
     
        一応、父→子という順であり、「道」が 「甲斐路」とつながるが、古今和歌集の撰者たちが、業平の歌で哀傷歌の部をしめず、この滋春の歌を最後に持ってきたことは、春歌上の 1番に在原元方の「年の内に 春は来にけり」を置いていることに似た、妙にゆがんだユーモアのセンスを感じる。

  哀傷歌の中で他に 「かりそめ」という言葉が使われている歌には、次の貫之の歌がある。

 
842   
   朝露の  おくての山田  かりそめ に  うき世の中を  思ひぬるかな
     
        「かぎり」という言葉を使った歌の一覧は 187番の歌のページを参照。

 
( 2001/09/20 )   
(改 2004/01/27 )   
 
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