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       題しらず 読人知らず  
1001   
    あふことの  まれなる色に  思ひそめ  我が身は常に  天雲の  晴るる時なく  富士の嶺の
  もえつつとはに  思へども  あふことかたし  何しかも  人をうらみむ  わたつみの  沖を深めて
  思ひてし  思ひは今は  いたづらに  なりぬべらなり  ゆく水の  絶ゆる時なく  かくなわに
  思ひ乱れて  降る雪の  けなばけぬべく  思へども  えぶの身なれば  なほやまず  思ひは深し
  あしひきの  山下水の  木隠れて  たぎつ心を  誰にかも  あひかたらはむ  色にいでば
  人知りぬべみ  墨染めの  夕べになれば  ひとりゐて  あはれあはれと  なげきあまり
  せむすべなみに  庭にいでて  立ちやすらへば  白妙の  衣の袖に  置く露の  けなばけぬべく
  思へども  なほなげかれぬ  春霞  よそにも人に  あはむと思へば
          
     
  • とはに ・・・ 常に
  • 何しかも ・・・ どうしてか
  • かくなわ ・・・ 紐を結んだような形をした、油で揚げた菓子
  • えぶ ・・・ 仏教用語で「人間世界」のこと (閻浮 :=閻浮提(えんぶだい))
  • せむすべなみ ・・・ どうしようもないので
  • やすらへば ・・・ 行ったり来たりうろうろすれば
  • よそにも ・・・ たとえ遠くても
  古今和歌集ではこの歌の前に 「短歌」という題がある。三十一文字の和歌に比べて長いのに何故 「長歌」としていないのかは、諸説あり不明である。 「短歌という名の長歌」とルーズに見ておくことにする。長い歌でお経のような感じだが、歌の内容は、一言で言えば 「逢えない恋」を詠ったもので、修飾を除いてみると次のようなことを言っている。

 
     
ほとんど逢えないにもかかわらず、恋をした自分は
ただ鬱々として思うけれども、だからといって逢えるはずもなく
深い思いは無駄になり、もう消えてしまおうと思うけれど
生身のこの体はそうもゆかず、かといって相談できる相手もなく
ただ独りで嘆きが増せば、やはりもう消えてしまおうと思うけれど
それでも遠いあの人に、逢いたい気持ちがあるために、ただこうして嘆くばかりなのさ


 
        "けなばけぬべく  思へども" というフレーズが二回、「思へども」に限れば三回出てくるのが特徴である。 「思へども」という言葉を使った歌の一覧については 373番の歌のページを参照。

  一方、譬えの部分をまとめると次のようになり、その中で "かくなわ" というお菓子の名が出てきている点と、 "えぶ" という聞きなれない言葉が入っている点が目を引く。

 
     
  あふことは  まれなる色に  思ひそめ  
  我が身は  天雲の  晴るる時なく  
   富士の嶺の  もえつつとはに  思へども
   わたつみの  沖を深めて  思ひてし
   ゆく水の  絶ゆる時なく  
   かくなわに  思ひ乱れて  
   降る雪の  けなばけぬべく  思へども
 あしひきの  山下水の  木隠れて  たぎつ心
   墨染めの  夕べになれば  
   白妙の  衣の袖に  
   置く露の  けなばけぬべく  思へども
   春霞  よそにも人に  あはむと思へば


 
        これを見ると 「富士の嶺/わたつみ」、「墨染め/白妙」あたりに対比がある感じである。また 「富士の嶺」のくだりでは 680番の藤原忠行の「富士の嶺の めづらしげなく もゆる我が恋」という歌が連想され、「山下水の 木隠れて」という部分は 491番の読人知らずの「あしひきの 山下水の 木隠れて」という歌とほとんど同じである。

 
( 2001/12/11 )   
(改 2004/02/17 )   
 
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