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       題しらず 藤原敏行  
1013   
   いくばくの  田をつくればか  郭公  しでの田をさを  朝な朝な呼ぶ
          
     
  • いくばく ・・・ どれだけ (幾許)
  • たをさ ・・・ 田の監督 (田長)
  • 朝な朝な ・・・ 毎朝
  
どれだけの田を作るというのか、ホトトギスは 「しでの田をさ」を朝な朝な呼んでいる、という歌。

  問題はその 「しでの田をさ」が何を意味しているかということだが、
「古今和歌集全評釈  補訂版 」 (1987 竹岡正夫 右文書院 ISBN 4-8421-9605-X) では 「幣垂(しで)の田長」とし、「古今和歌集全評釈(下)」 (1998 片桐洋一  講談社 ISBN4-06-208753-7) でも 「垂幣 (しで:=田植えの開始時期の神事に使う垂幣紙)」として、それを支持している。その他、「死出の田長」「賤(しづ)の田長」などの説がある。

  またこれに合わせて 「シデ(ノ)タヲサ」をホトトギスの鳴く声と見る説も一般的である。催馬楽に

    婦(いも)が門  夫(せな)が門  行き過ぎかねてや
    我が行かば  肱笠(ひぢかさ)の  肱笠の
    雨もや降らなむ  
しでたをさ
    雨やどり  笠やどり  宿りてまからむ  
しでたをさ

というものがあり、この 「しでたをさ (之天多乎左)」もこの敏行の歌の "しでの田をさ" と同じものを指しているのではないか、と見られている。ただ、この 「婦が門」という催馬楽がホトトギスの声を歌っているという根拠はないようである。 「して・たを・さ」という単なる合いの手のような感じもする。

  この敏行の歌では、先に "田をつくればか" と出して、 "しでの田をさ" と言っているので、一見ホトトギスの鳴き声が 「しでの田をさ」に直結するような感じだが、10011番の「ひとく、ひとく」というウグイスの声の誹諧歌と並べてみると、逆にホトトギスの声を 「しでの田をさ」を呼ぶと見たところにこの歌のポイントがあり、当時ホトトギスの声を 「シデ(ノ)タヲサ」と聞くということが一般的であれば、この誹諧歌は成立しないような気もする。

  「しで」の説明はつかないが、同じ敏行には 423番の「くべきほど 時すぎぬれや」というホトトギスの物名があるので、「ほと時すぎぬ」の部分から 「時が過ぎているぞ」と 「田長」を "朝な朝な" 呼んでいると見えないこともない。

  ちなみに、
「古今和歌集全評釈  補訂版 」 (1997 竹岡正夫 右文書院 ISBN 4-8421-9605-X) によれば、「顕註密勘」には「しでのたおさとは郭公の一名なりと、ふるき物にしるせり。ほとゝぎすはしでの山より来りて農をすゝむる故に、しでのたおさといへり。其詞云、過時不熟となくが郭公ときこゆるなりと申。時すぎばみのらじと鳴と云云...」と書かれており、「其詞」が何を指しているか今一つ不明だが、ホトトギスは 「過時不熟(かじふじゅく)」と鳴き、それは 「時過ぎれば実らじ」と 
「農作業をうながす」という説があったことが述べられている。

  「朝な朝な」という言葉を使った歌の一覧については、「朝な朝な聞く」というフレーズのある 16番の歌のページを参照。また、鳥などが 「〜というように鳴いている」ということを詠った歌の一覧は 
1034番の歌のページを参照。

 
( 2001/12/18 )   
(改 2009/08/14 )   
 
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