折れるさくらをよめる | 紀貫之 | |||
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何気なく見ればそれは一つの飾り物であるが、その枝がそこにあるのは 「誰か」が折ってそこに置いたからである。 「誰か」が桜を見、この枝に目をつけて、それを折った。また、ここまで運んだのはさらに別の 「誰か」かもしれず、飾ったのはまた別の 「誰か」かもしれない。桜の枝はこうして目の前にあるだけだが、その裏には自分の知らない意志や行為が関わっている。 「何も無い空間」と 「何かがある空間」を比較した時に感じられる 「存在による歪み」の感覚が、この歌の源にはあるように思われる。 古今和歌集の配列ではこの歌の前方に、「桜を手折る」次の読人知らずの歌や素性法師の歌が置かれている。それらと並べてみるとこの歌は、「彼方(かなた)」に対する 「此方(こなた)」という感じで、歌同士の間に奥行き感が感じられる。 |
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また、この歌で使われている "とめて" (=求めて)という言葉は、350番の紀惟岳(これおか)の「亀の尾の 山の岩根を とめておつる」の歌でも使われている。 「かも」という係助詞を使った歌の一覧については 664番の歌のページを参照。また、「春霞」を詠った歌の一覧は 210番の歌のページを、「立ち隠す」という言葉を使った歌の一覧は 1038番の歌のページを参照。 |
( 2001/11/20 ) (改 2004/02/26 ) |
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