僧正遍照によみておくりける | 惟喬親王 | |||
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桜花は散るなら散ってしまえ、散らなくとも 「ふるさと人」が来て見るわけでもないのだから、という歌。最後の "見なくに" は 「きても見なくに−散らば散らなむ」の倒置と見て、「なくに」は順接で 「見ないのだから」というかたちと見ておく。 「〜なくに」という言葉を使った歌の一覧は 19番の歌のページを参照。 この歌で目につくのは "ふるさと人" という言葉である。 「ふるさと」は昔馴染みの場所、それに 「人」がついて 「昔親しかった人」ということであろう。 「ふるさと」という言葉を重く見れば、桜−惟喬親王と遍照が 「場」でつながっているようにも見える。実際にはこの歌がいつ/どこで詠まれたのかは不明である。詞書に「僧正」とあるが、詞書は後付けである可能性が高いので、それをもってこの歌が遍照が僧正になった885年以降に作られたとすることはできない。 ただ、この歌の "散らば散らなむ" という言い方は、もう一つの惟喬親王の歌である 945番の 「住めば住みぬる」というニュアンスと似ているので、そちらを親王の小野隠棲前後とみなせば、この歌も同時期であるとも考えられる。 惟喬親王の小野隠棲は872年、その年遍照は五十七歳。その年の三年前の869年に、遍照は常康親王(仁明天皇の第七子)から雲林院の管理をに任され、同年の常康親王の没後、その子素性法師がそこに住んだとされる。また、この頃の遍照は868年に花山に元慶寺を創立したりと多忙だったことがうかがえる。 惟喬親王の隠棲地である小野は、明確な場所は不明だが、比叡山の北北西の麓あたりで、970番の業平の歌の詞書にも 「比叡の山のふもとなりければ」とある。 一方、天台宗の遍照にとって比叡山は当然なじみの深い場所であり、常康親王関連ではあるが 「遍照−比叡山−桜」というラインを結びつけるものとして、離別歌の中に次の遍照の歌がある。 |
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この歌は詞書には「雲林院のみこの舎利会に山にのぼりてかへりけるに、さくらの花のもとにてよめる」とあり、「雲林院のみこ」=常康親王が舎利会のために行った 「山」とは比叡山で、ここでは比叡山にある延暦寺を指す。 「山にのぼりてかへりけるに」という言葉が、「延暦寺に行って都に帰ってきた時に」ということなのか、「延暦寺で舎利会を終えて帰ろうとする時に」ということなのか判別しづらいが、歌の 「山風に」というのを譬えではないとすれば、後者であろう。さらに遍照が歌を詠んだ場所がどこかとなると、舎利会を終えた延暦寺なのか、接待用に用意した山の麓のどこかの寺なのか、という疑問が残るが、395番の幽仙法師の歌が、この394番の遍照の歌の詞書を引き継いでいることと、393番の幽仙法師の歌の詞書から推測すると、どうもその場所は接待用に用意した幽仙法師の坊ではないかと思われる。 そう考えると、この惟喬親王の歌は、小野にて、比叡山あたりの桜を詠んだのではないかとも考えられるが、あやしい所もある。それは、
さて、惟喬親王と常康親王の実際の交流の程度はわからないが、常康親王は文徳天皇の弟で惟喬親王から見れば叔父にあたり、その母同士が姉妹であった(常康親王の母=紀種子、惟喬親王の母=紀静子で共に紀名虎の娘)ことから、当然お互いの消息はわかっていたであろう。惟喬親王は在原業平を擁し、常康親王は僧正遍照を引き立てていたようなイメージがあるが、この歌はその図式の中で 「惟喬親王−僧正遍照」を結ぶものとして面白い。 また、この惟喬親王の歌とほとんど同じ内容で、桜花を "散らば散らなむ" と詠った歌としては、次の貫之の歌がある。 |
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( 2001/08/03 ) (改 2004/01/12 ) |
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