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白雲が絶えずたなびく山の峰にでも、住んでみれば住める、そんな世の中であったよ、という歌。
「白雲」を使った歌の一覧は 30番の歌のページを、「だに」という言葉を使った歌の一覧については 48番の歌のページを参照。また、「世にこそありけれ」という言葉を使った歌の一覧は 430番の歌のページを参照。
惟喬親王が出家し、比叡山の麓の小野に隠棲したのは、872年七月。 "ありけれ" という感じからはその後に作られたもののように思われる。五歳年下の異母弟である清和天皇も、876年に九歳の陽成天皇に譲位した後、879年に出家している。当時、清和天皇は三十歳。惟喬親王の場合は二十九歳であるから、年齢的にはほぼ同じ頃のことである。ただ、清和天皇の出家は求道的な意味合いが強く、巡礼や苦行の末、それからわずか一年後の 880年に没している。出家後の生存年数だけで判断するわけにはいかないが、文徳天皇の第一子であったにもかかわらず天皇になれなかった惟喬親王の感じていたプレッシャーよりも、実際に天皇に担ぎ上げられた清和天皇の苦労の方がより身にこたえるものであったのかもしれない。
惟喬親王の没年は 897年。小野宮と号され、小野での隠棲生活のまま生涯を閉じたと思われる。次の哀傷歌は、紀友則が父・紀有朋の遺した歌を惟喬親王から所望された時のもので、紀有朋の没年は 880年であるので、親王は小野に入った後も、歌に興味を持っていたことがわかる。
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