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詞書にある 「北山」は、95番や 309番の素性法師の歌の詞書にも書かれているが、京の北側の山地ということで場所は特定できない。現在の京都府京都市の 「大北山〜町」と付けられているあたりか。見る人もなく散ってしまった奥山の紅葉は、まさに「夜の錦」である、という歌。
歌の中のでは "夜の錦" という言葉が目につくが、内容としては 「夜の紅葉」を詠ったものではない(「夜の錦」は 「史記」の項羽本紀の「富貴にして故郷に帰らざるは錦を著(き)て夜行くが如し」(富貴不帰故郷如衣錦夜行)から、無駄なことの譬え)。
"散りぬる" の 「ぬる」(完了の助動詞「ぬ」の連体形)をどう見るかによって、若干ニュアンスが変わってくる。完了とみれば 「もみぢ折らむ」と思って来たけれど、その一部はすでに散ってしまっている、ということになり、「これから間違いなく〜する」という意味にとれば、散ってしまう、という一般的なことを指しているように受け取れる。どちらかというと、すでに散り方になっているという方が自然か。
さらに "奥山" が、やって来た 「北山」を指しているのか、それよりさらに奥の山を指しているのかも微妙である。一応、ココ(=北山)ではまだ紅葉が残っているけれど、その奥で人知れず散ってしまった紅葉は 「夜の錦」だな、ということを目の前で散る紅葉を見て思った歌、と解釈しておく。いずれにせよ、その発想の元は「紅葉は錦に譬えられるけれど、同じ錦でも人に見られない紅葉はまさに 「夜の錦」だな」ということであり、それは裏を返せば、散っていない紅葉に対して 「富貴にして」という言葉が浮かぶということでもあるだろう。
このように考えると、やはりこの歌の 「夜の錦」にはライトアップされた「夜の紅葉」のイメージがないことがわかるが、かろうじて 「夜のもみじ」を詠っている歌としては、次の読人知らずの歌がある。
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