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詞書の意味は、宇多天皇の時代に古歌を奉れという下命があったので、「竜田川ももみぢ葉流る」という歌を書いて提出し、その歌と 「同じ心」を詠んだもの、ということ。その古歌とは、284番に題しらず/読人知らずとして採られている歌である。この詞書の話の流れからすると、興風が明らかに誰もが知っているような古歌を選んだとも思えないので、284番の歌はこの時の興風の提出によって広く知られたとも考えられる。
歌の内容は、古歌の 「神なびのみむろの山」という言葉により、御山(あるいは深山)から落ち流れてくる水の色を見て、秋は終りにきていることを思い知った、ということ。 「思ひ知る」という言葉を使った歌の一覧は、その 185番の歌のページを参照。 "み山" 以外は元歌の 「竜田川/もみぢ葉/時雨」という言葉を使わずに柔らかく詠っているのが特徴である。
"かぎり" という言葉は、264番の「今はかぎりの 色と見つれば」という歌のように 「ぎりぎりのピーク」という意味もあるが、ここでは一つ前の 309番の素性の「秋はかぎりと 見む人のため」と同じで、「もう終わりという限界」ということであろう。つまり、この歌は元の歌の最後の 「時雨降るらし」の心を読んで「時雨−冬」という発想から 「時雨が降っているようだ=秋は行ってしまったようだ」と受けている歌である。 「かぎり」という言葉を使った歌の一覧は 187番の歌のページを参照。
また 「くる」ことにより 「思ひ知る」という歌としては、秋歌上にある185番の読人知らずの「おほかたの 秋くるからに 我が身こそ」という歌が連想される。
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