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       からさき 伊勢  
459   
   浪の花  沖から咲きて  散りくめり  水の春とは  風やなるらむ
          
        「おきカラサキに」という部分に題の 「からさき」が含まれている。 「からさき(唐崎)」は現在の滋賀県大津市唐崎。よって、この歌の 「波」と 「沖」は海ではなく、琵琶湖のことである。

  歌の意味は、
浪の花が沖から咲いて散って来るように見えます、水の春の元は風なのでしょうか、ということ。この歌は、同じ題を持つ一つ前の次の阿保経覧(あぼのつねみ)の歌とは内容的には関係なく、424番と 425番の 「うつせみ」の歌のような贈答歌にはなっていない。

 
458   
   かの方に  いつ から先 に  わたりけむ  浪ぢはあとも  残らざりけり
     
        同じ場所で詠まれたという点からは、456番の安倍清行の 「からこと(唐琴)」の歌と 921番の真静法師の歌の関係に近い。 「〜先」という言葉で、経覧の歌は時間のことを言い、伊勢の歌は空間のことを言っている。古今和歌集の配列を逆にたどれば、457番の 「いかがさき」の歌には 「咲き散る」という言葉が含まれ、物名の地名シリーズがはじまる 456番の 「からこと」からこの伊勢の歌までは 「波」つながりとなっている。 「浪の花」ということを詠った歌の一覧は 250番の歌のページを参照。

 
457   
   かぢにあたる  浪 のしづくを  春なれば  いかが 咲き散る   花と見ざらむ
     
456   
   浪 の音の  今朝からことに  聞こゆるは  春のしらべや  あらたまるらむ
     
        本居宣長は「古今和歌集遠鏡」の中で、上記の457番の歌の 「咲き散る」について、「花のさきちるといふは。たゞちること也。例みなしかり。」として「今ハ春ナレバ花ガチルト思ハレル」と訳しているが、この伊勢の歌の "沖から咲きて  散りくめり" については、「アノ沖ヘサイタ花ガ 沖ノ方カラチツテ来ル様子ヂヤ」と 「咲く」の意味を残している。

  どちらも同じようなもので、「咲く」の意味を残しても問題はないと思われる。 "散りくめり" の 「めり」は、推量・婉曲の助動詞で 「〜のようだ」ということ。この 「めり」を使った歌の一覧については 
1015番の歌のページを参照。

  この歌の "水の春" に対して、「水の秋」と詠ったものに次の坂上是則の歌がある。

 
302   
   もみぢ葉の  流れざりせば  竜田川  水の秋 をば  誰か知らまし
     
         "風やなるらむ" は、「風+や+成る+らむ」である。本居宣長は「古今和歌集遠鏡」でこれを 
水ノタメニハ 風ガ春ニナリカハツテ」と訳しているが、どうもすっきりしない。上記の 302番の坂上是則の 「水の秋」と同じく、「水には季節感がないが、それが今、春だとわかるのは、風によって(浪の)花が咲き散るからだろうか」というニュアンスで見たいような気がする。 「成る」を生かすとすれば、「水の春とは、風が(原因に)なったものか」という感じだろうか。ただ、 「伊勢集」ではこの歌は 「波の花 沖からさきに 見えつるは 水の春とも 風ぞなりける」となっていて、その場合は宣長の訳に近い。

  ちなみに、上田秋成は賀茂真淵「古今和歌集打聴」の細書(=注)で、「
風やなるらんてふ詞いぶかし今の本に成らんと有成の字はなすらんと有しを真名に成らんと書なせしより又なるとはうつしなせしものか水の春とは風やなすらんにて心詞ともによく聞ゆなるべし」と述べている。 「成らん」が 「なすらん」かどうかは別として、「風が水の春としているのか」という意味に受け取っていることには同意できる。

  伊勢の物名の歌はこの 「からさき」の歌一つであるが、1051番には 「長柄の橋」の誹諧歌があり、雑歌下には 「家を売りてよめる」という詞書のついた次のような 「銭」を使った駄洒落の歌も採られている。これらを見ると伊勢の歌の幅の広さが感じられ、それがまた古今和歌集の撰者たちに認められていたことがわかる。

 
990   
   飛鳥川  淵にもあらぬ  我が宿も  瀬にかはりゆく   ものにぞありける
     

( 2001/12/18 )   
(改 2004/03/08 )   
 
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