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- あやめ草 ・・・ 現在の菖蒲(しょうぶ)のこと
- あやめも知らぬ ・・・ (常識的な)判断がつかないような(文目も知らぬ)
ホトトギスが鳴く五月に咲くあやめ草、自分はその 「あやめ」も知らぬ、道理のわからない恋をすることかな、という歌。三句目までは序詞である。 「あやめも(を)知らぬ」とは 「あやなし」とほぼ同じ意味である。 「あやなし」という言葉を使った歌の一覧は 477番の歌のページを参照。
この歌は恋歌一のはじめに置かれていて、三百六十首ある恋歌の先頭を飾るものである。歌の前半は調子もなめらかに夏を詠うようにはじまり、「あやめ草−あやめも知らぬ」で急転して恋の歌に変わる。古今和歌集で夏歌に郭公(ホトトギス)の歌を多く採用しているのは、この歌のための準備であるかのようにも感じられる。
「あやめ草−あやめも知らぬ」に見られる 「あやめ」の同音反復は、古くは仮名序で「おほさざきの帝をそへたてまつれる歌」 とされている次の歌の同語反復に見られる歌謡性を源としている。
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
この反復の傾向は 268番の業平の 「植ゑし植ゑば」の歌などにも引き継がれ、リズム合わせとして根強い人気はあるものの、やはり三十一文字という限られた範囲の中でまったく同じフレーズが繰り返されることには情報伝達という点で無駄がある。
そこでこの歌の 「あやめ草−あやめも知らぬ」のように、意味が異なるが同じ音の言葉を寄せるということで、無駄をしている感じがより少ない歌が好まれたのではないだろうか。そしてリズムの方を犠牲にすれば、例えば 「あやめ草−あやめも知らぬ」ならば 「〜草の名の あやめも知らぬ〜」と一つの言葉に二つの意味をダブらせることによってさらに圧縮することができる。それが掛詞の使用の理由の一つであると考えられなくもない。掛詞を圧縮という観点から見ると、この 「あやめ」の歌は固まる前の中間状態のようで興味深い気がする。
掛詞が多く登場する古今和歌集の中で見ると、この歌のような手法はやや古いスタイルのように感じられるが、貫之も次の歌などでそれをやや崩したかたちで使用している。
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