題しらず | 壬生忠岑 | |||
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今それを、 「古今和歌集全評釈 補訂版 」 (1987 竹岡正夫 右文書院 ISBN 4-8421-9605-X) 「古今和歌集全評釈(中)」 (1998 片桐洋一 講談社 ISBN4-06-205980-0) に紹介されているものなどを参考にまとめると次のようになる。 (A) 逢えずに帰ってきたものである (「両度聞書」 「古今余材抄」 「古今余材抄」 「古今和歌集打聴」など)
(「顕註密勘」 「古今和歌集遠鏡」)
また上記にも出ているが、「有明」と 「つれなく見えし」のつなぎについては、一般的には 「夜が明けると自分は(あきらめて)帰らなければならないのに有明の月は残っている」から 「つれなく見えし」と言っているのだと解釈されている。確かにそういうことなのだろうが、ここではフラれた時に有明の月があった、という情景のままでとっておきたい気がする。 なお、「有明」という言葉を使った他の歌には 332番の坂上是則の歌と 691番の素性法師の歌がある。 「つれなし」という言葉を使った歌の一覧については 486番の歌のページを参照。 藤原定家は 「顕註密勘」で自分の意見として、この忠岑の歌について 「これほどの歌ひとつよみいでたらむ、この世の思ひ出に侍るべし (これほどの歌を一つひねり出したなら、この世にいた思い出になるだろう)」と絶賛し、八代集からそれぞれ十首づつ選んで編んだ 「八代集秀逸」の中の一つとしてこの歌を選んでいる。その他の九首については 365番の歌のページを参照。 次の読人知らずの歌もこの歌と並べて見ておきたい。 |
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( 2001/12/18 ) (改 2004/02/11 ) |
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